第1章 おかしな日曜日
 カーテンの隙間から射し込む黄金色の光に気がついて、ソラは目を覚ました。薄墨色の部屋に、ひとすじの道を指し示すようにして朝の光が注がれている。床に投げ出していた両脚を縮めて立ち上がると、小走りで窓の前へと向かった。鼻先でカーテンを捲った途端、眩しいほどの光がソラの目に飛び込んできた。
 外は澄んだ青空が広がっていた。美しく晴れ渡った青空を讃えるようにして、小鳥たちも気持ちよさそうにさえずっている。これほど綺麗な青空の下を散歩するのはどんなに楽しいだろうと、ソラは考えただけでワクワクした。

 ソラは今年の夏生まれたばかりの、生後三ヶ月の子犬である。柴犬ということらしいが、ソラの全身は真っ白な毛で覆われていた。その上、ソラの体はとても小さい。以前の飼い主は、他の兄弟達よりも遙かに小さなソラを見るや否や「この子は育たないだろう」と、そう断言した程だ。
 だが、飼い主の友人であり、今の飼い主でもある尚人(なおと)は、そんなふうに思わなかった。「子犬が五匹生まれたから、一匹引き取ってくれないか」という友人の申し出を受けて出向いた時、元気に声をあげる子犬の脇で、小さく縮こまって震える白い子犬に惹かれたのだ。迷わずその子犬をすくい上げる尚人に、友人はこう忠告した。
「ああ! その白いのはやめた方がいい。食欲もないし、この暑さの中でもずっと震えてばかりいるんだ。こんな様子じゃ、きっとすぐに死んじゃうよ」
しかし、尚人は首を横に振った。確かに、その時のソラは見るからに貧弱で、端から見ても元気に育つことは到底想像出来なかった。しかし、尚人はソラを見て「運命的なものを感じた」のだそうだ。そう説明されてもソラにはよくわからないが、大好きな尚人にもらわれたこと自体は、とても幸福に思っている。
 ソラが榊野(さかきの)家に引き取られた日も、今日のように青空がとても澄んでいた。八月──真夏真っ盛りの太陽は焦がすように地表を照らしていたが、その背景に広がる青空はとても優しく、まるで世界を包み込むかのように大きく腕を広げていた。そんな空を見上げながら、尚人はソラを天高く掲げた。そして、「お前も、この青空のように大きな存在となっておくれ」と願いを込めて、「空(ソラ)」と名付けたのだ。
 こうしてソラは、その日から「榊野ソラ」となった。
 当初心配されていたソラの健康状態は、どうしたことか榊野家に引き取られた途端解消された。生まれたばかりの頃の弱々しさなどまるで嘘のように、ソラは元気に育っていった。前の飼い主はそんなソラを見るたびに、尚人に向かって「お前は一体、どんな魔法を使ったんだ」と訝しんだ程である。
 榊野家には、尚人とソラの他に、九歳になったばかりの女の子「未来(みく)」がいる。いわば、尚人は榊野家の大黒柱であり「パパ」なのだ。
 「ママ」という存在は、どういうわけか榊野家にいなかった。しかし、亡くなったというわけでもないらしい。尚人こと「パパ」はそのことについていっさい話題に触れないし、未来もどこか遠慮が働いているのか、聞こうとしなかった。
 だが、母親がいないという状況は、この親子にとってさほど重大なことではないようだ。二人は、それほどまでに仲が良かったからだ。そして、ソラのことも弟のように可愛がってくれる。二人と一匹は、まるでもうずっと前から家族だったかのようにして、仲良く幸福に暮らしていた。

 カーテンの隙間から外を見つめるソラの背後で、カタン……と音がした。振り返ると、パジャマ姿のパパが立っている。周辺の空気をいっきに飲み込む程の大きな欠伸をしたかと思うと、ソラに向かって笑いかけた。
「おはよう、ソラ! お前はいつも早起きだね」
 パパの呼びかけに、ソラは嬉しくて「ワン!」と吠えて尻尾を振った。
 眼鏡をかけ、いつもは理知的な印象を漂わすパパだが、家にいる時はどことなく間が抜けている。憧れの対象であるパパがみっともないことをしていると、未来はいつも目くじらたてて怒った。パジャマ姿で頭をボリボリ掻く今のパパの姿を見たら、またもや未来が怒りだしそうだ。
 パパはソラの横に立つと、勢いよくカーテンを開けた。シャッ……と音がした瞬間、薄ぼんやりとしていた部屋は瞬く間に朝を迎えた。黄金色の光が、部屋の隅々まで広がっていく。
 カラカラとレールを移動する音と共に、爽やかな秋風が部屋の中へと滑り込んできた。ほのかに香る金木犀が、心地よく鼻腔を刺激した。
 パパは窓のすぐ下に置いてあったサンダルを履くと、ベランダへと降りた。ソラも小走りで後に続く。「ん――っ」と伸びをするパパの脇に座り込むと、手すりの間に顔を埋めて、広がる景色に目を向けた。
 十五階建てのマンション最上階にあるベランダから見る眺めは、実に爽快だ。マンションの前には大きな通りが走っていて、朝夕お構いなしに車が通過していく。この先にある駅へ向かう人の波は常に絶えることがなく、子供達のはしゃぐ声は天高く響いていた。輝く陽の光はソラの斜め前方から照らし、その周辺を青空が包み込む。遠くに霞む都心のビル群が、まるで蜃気楼のようにゆらゆらと揺れていた。

 いつも見慣れた風景。
 いつも見慣れた街並み。
 ――なのに、何故だろう。

 ……何かが違う。「妙な胸騒ぎ」を感じるのだ。
 
 首をすくめて周囲を見るソラの頭を、パパが優しく撫でた。
「未来が起きたら、朝食を食べた後散歩に行こう。どこか公園で昼食をとってもいいかもな」
 パパの提案に、ソラは嬉しくて「ワンワン!」とはしゃいだ。小さな尻尾をパタパタと振るソラの頭をもう一度撫でると、パパはそのまま踵を返した。その後をソラもついて行こうとした――その時。

 背筋に、冷たいものが走った。
 全身総毛立ち、ソラは瞬時に振り返る。

 その先に広がるのは、美しい青空とビル群――のはずだった。つい先程までそこにあった光景が、あろうことか突然「ぐにゃり」と歪んだのだ。
 愕然とソラが光景を見守る中、あちこちから黒い煙のようなものが舞い上がった。それらはやがて生き物のように蠢きながら、空中を徘徊する。気がつけば、街のあちこちが黒い影で埋め尽くされているのがわかった。
 初めて目の当たりにする恐怖に、ソラは怯えて声が出なくなった。穏やかな日常の均衡は瞬く間に崩れ去り、すべてが淀んだ黒い影に覆われてしまった。
 気のせいだろうか、何かが聞こえる。
 黒い煙や影が、蠢きながら何かを歌っているようだ。囁きのように聞こえるそれに、ソラは全身を研ぎ澄ませて耳を傾けた。

 ヘイヘイ、ヘヘイ……ホウホウ、ホホウ……。
 
 人間滅ぼせ、ヘイヘヘイ

 奴らを蹴散らせ、ホウホホウ

 我らを殺し、自然を殺した

 人間に罰を、ヘイヘヘイ


 戦慄が走った。
 それは驚きと戸惑い、同時に憤りでもあった。
 ソラにとって、人間は友達だ。その友達を滅ぼすなんて――そんなこと、させてたまるものか。そう思った刹那、ソラは形のない敵に向かって激しく吠えたてていた。

「ワン! ワンワンワンワン!」

 いつもと違うソラの態度に、部屋に戻りかけていたパパが瞬時に振り返った。急いでソラの元へ走り寄る。
「どうしたんだ、ソラ」
 呼びかけるパパを、ソラは振り返ろうともしない。吠えたてるソラをからかうようにして飛び交う影を目で追いながら「ウゥ――ッ」と低く唸り続ける。
「一体、どうしたっていうんだ。何かあったのか」
 尋常じゃない吠え方に、パパはその場で腰を落とした。ソラの視点で辺りを見回すも、不審なものなど何もない。いつもと同じ青空に、いつもと同じビルの風景、それだけである。
 パパは手すりから顔を出して、下を覗いてみた。遙か真下に通りは見えるものの、それ以外怪しい人影があるわけでもない。ソラが吠えたてる対象を見つけることが出来ず、パパは再度振り返った。
 ソラは体の向きを何度も変えながら、空中に向かって吠え続けていた。まるで目で何かを追っているような仕草に、パパは首を傾げる。

「……ソラ。お前には一体、何が見えているんだ?」

 お手上げ状態となり、腕を組む。
 ふと、ベランダの異変に気付いたのか、未来が顔を覗かせた。パジャマ姿にカーディガンを羽織った状態で、眠そうに目をこすりながら立っている。
「お早う、パパ。――何かあったの?」
「いや、僕にもわからないんだ。……急にソラが吠えだしてね」
 未来の声がしても背を向けたままのソラを見て、未来も怪訝そうに顔を歪めた。ベランダに降りると、ソラの元まで歩み寄る。
「お部屋に行こう、ソラ。きっと、ソラには何か嫌なものが見えたんだよ。お部屋に行けば大丈夫だから。ね?」
 そう言うと、未来はソラを優しく抱き上げた。
 温かい未来の温もりを感じて、ソラはやっとのことで落ち着いた。視線で黒い影を追いながらも、部屋の中へと戻っていった。

 パパと未来が食事をしている最中も、ソラは絶えず窓の外にある青空を睨んでいた。時折「ウゥ――ッ」と低く唸るソラに目を配り、未来は心配そうに顔を歪めた。
「――ねぇ、パパ。どうしてさっきから、ソラは吠えてばかりいるの? あんなソラ、見たことないよ」
「もしかしたら、ソラには僕ら人間には見えない何かが、見えているのかもしれないね」
 パパの答えに、未来は目を輝かせた。身を乗り出して、ワクワクしながらこう尋ねる。
「人間に見えない何かって、なぁに? お化け?」
「さぁね。もしかしたら、『トトロ』かもしれないね」
 パパの返答に、未来は幾分不満げな顔をした。「子供扱いされている」と、そう思ったからだ。未来はパパに「自分はもっと、大人びた情報を持っているんだよ」ということを知ってもらいたくて、とっておきの情報を口にした。
「パパ! あのね、同じクラスのサキちゃんが言ってたんだけど、サキちゃんちの猫は仏壇の前に行くといっつも『シャァ――ッ』て毛を逆立てるンだって。それでね、サキちゃんの弟が仏壇の中を見たら、怖いおばあさんの顔があったんだって!」
 未来は後半の部分に力を込めた。パパが驚いてくれることに期待したが、残念なことにそれは裏切られた。パパは「……ふぅん」と相槌を打つのみだ。
「でね、『霊能者』って人に見てもらったら、報われなかったご先祖様が仏壇に取り憑いてるって言われたンだって! だからサキちゃん、仏壇の前を通るのが怖くて仕方ないっんだってさ!」
 興奮しながら語る未来に反して、パパは至って冷静だった。表情を変えることなく、静かに返す。
「仏壇はお供えをする為の場所なんだから、怖い幽霊なんているはずないよ。それに、自分が報われなかったから子孫を祟るなんて、そんな身勝手なご先祖様いるわけがない。未来だって、自分の子供や孫にあたる人達を祟りたいだなんて、思ったりしないだろ?」
「ん……うん、まぁ……」
「猫が反応するのは、他に理由があるかもしれないじゃないか。何でもかんでも死んだ人のせいにしたら、亡くなった方に失礼だよ」
 素っ気ないパパの返答に、未来は肩をすくめた。
 ──そうなのだ。この手の話、パパは何故か乗ってこない。
 味気ないなぁと、未来は思う。学校で算数や社会の勉強をするよりも、お化けの話をしていた方が遙かに有意義だ。世界は目の前にあるものだけでなく、生まれてくる前と死んだ後にも続くのだと思った方が、生きる楽しみが二倍に膨らんだ気がしてくる。
 しかし、だからこそ「死んだ後どうなるのか」は、未来にとってとても気になることだった。死んだ後に待つものが何かによって、今を生きる心構えも違ってきそうな気がするからだ。以前絵本で見たような美しい天使達が集う世界なのか、はたまた、針の山や血の池などというおぞましい地獄の世界なのか――。一体、自分はどちらへ行くのか、「はっきり」知りたい。
 先日友達に誘われて教会に行った時などは、神父様が「悔い改めよ。天国は近づいている」とそう言っていた。でも、人生経験の少ない未来からすれば、一体「何をどう悔い改めればいいのか」自体がよくわからない。
 また、一方でお寺の和尚さんからは「嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれ、地獄に行く」と聞いたこともある。だったら、もう自分は地獄行き決定だと、未来は思った。大きな嘘をついたことはないが、塾をさぼりたくて仮病を使ったことが、何度かあったからだ。
 「一体、何を信じればいいのだろう」――未来はそう思う。
 しかし、こういった話をパパとするのはタブーだった。「地獄はあるのか」と聞くと、決まってパパは「未来が地獄に行きたいと思うなら、地獄に行けるよ。行きたくないと思うなら、行かないで済むだろう」と、何とも煮え切らない返答をするからだ。
 もしかしたら、パパの言っていることこそが正しいのかもしれない――そうも思う。
 以前、パパにこんな質問をしたこともあった。

「パパは、死んだ後どうなると思う?」

 パパは仕事の執筆をしていた最中だったが、キーボードを打つ手を止めると、未来の目を見つめてこう答えた。
「僕は、『すべての源に還る』のだと、そう思ってるよ」
「すべての源?」
「生命が誕生したということは、その発端となるエネルギーが存在したはずだ。人間に限らず、生物は死ぬと微生物達によって分解されていくだろ? それと同じで、魂も分解されて、ひとつのエネルギーの源に帰って行くと、そう思うんだ」
「自分がなくなっちゃうってこと?」
 未来は声をあげた。

「自分がなくなる」――。
 それは、未来にとって何だかとても恐ろしいことのように感じた。

 しかし、パパは穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「『自分』というものは失いがたい拠点のように思われがちだけど、実際は、自由を拘束しているもののように、僕には思えるんだ。勿論、自己表現という目的において、自分の存在はなくてはならないものだけれど、死というものはある視点で言えば『新たなものに変化する時』なんだと、僕は思う。だとしたら、魂が分解されて源に戻りひとつになれるということは、実際は恐ろしいことでも何でもなくて、とても豊かで、癒される道なんだと、そう思えるよ」
 何だか難しい話になってしまった――未来はわかったようなわからないような、複雑な表情で頷いた。
 そう。パパは「目に見えないもの」をいっさい信じないわけではないのだ。神秘的なものに対して「非科学」と否定することもない。「これらは非現実的なのではなく、まだ科学で証明されていないだけなのだ」として、「未科学」とするぐらいである。その理由を聞くと、パパは決まってこう答えた。
「実際に目で見て確証されてないものでも、科学として認められているものはいくらでもあるよ。量子論なんかは、そのいい例かもしれない。素粒子の正体はこの目ではっきり確証されていなくても科学として認めるのに、魂を非科学とするのは、ちょっと不公平だよね?」
 ――なるほど。そう言われてみればそうなのかもしれないと、未来は思う。
 だからこそ、ソラが感じている「目に見えないもの」については、パパも否定するつもりはないようだ。だから未来は、皿洗いをするパパの元に食器を運びながら、こんなふうに尋ねてみた。
「ねぇ、パパ。だとしたらパパは、ソラが一体何を感じていると思うの?」
「動物というのは、人間よりも遙かに敏感な勘を持っている。よく、地震などの天変地異を前にすると動物達が興奮するというだろう? この地球上には人間の目には見えないけれども、明らかにエネルギーが存在していて、危険が迫るとそれが微妙な変化を起こすんだろう。それをソラが感じ取っているんだと、僕は思うよ」
 パパのコメントに、未来はびっくりしたような声をあげた。
「じゃぁ、大地震が起こるかもしれないってこと?」
「必ずしもそうじゃないと思うけど、ね。こればかりは、ソラに聞いてみないとわからないな」
 そう言って、パパは未来の頭を撫でた。
 パパの解答は、どこか自然科学的だ。もっとも、パパの仕事を考えて見れば至極当然なことかもしれない。
 パパは、自然環境に関わる研究を続けていた。人間の生活環境と自然保護のバランスをテーマに、環境に関わる会社を設立し、そこの代表者を務めているのだ。
 小さなNPO法人だが、環境ジャーナリストとしても活躍しているパパへの環境に関する相談はひっきりなしにある程だ。その度に、パパは南の島だの北の半島だのあちこち交渉に飛び回っている。
 そんな仕事をするパパを、未来は「カッコイイ」と思う。そうはいっても、パパの仕事について概要を理解出来たのはつい最近のことで、それまではずっと「パパは旅人なのだ」と思っていた。今でもパパの仕事の詳細を説明するのは困難だが、とりあえず胸を張って「パパは、自然を守る仕事をしているの」とは、言えるようになった。
 背が高く痩せ身の上に眼鏡をかけているパパは、どう見ても森林や山林を飛び回っているようなタイプには思えない。だが時折、眼鏡の奥の瞳が凛々しい光を発しているのを、未来も感じることがあった。そんな時、未来は「パパが、未来のお父さんで本当に良かった」と、そんなふうに思う。パパは未来にとって、理想の人物でもあったのだ。
 ひととおりの家事を終えたパパが、着替えをしながら声をかけた。
「さて、天気もいいことだし散歩にでも行こう。ソラも、外に出れば気晴らしになって少しは落ち着くかもしれない」
 パパの提案に、未来は喜んで承諾した。

 秋の陽射しは爽やかに地表を照らし、高く澄んだ青空には白い雲がまばらに浮かんでいた。天高く一筋流れる飛行機雲を眺め、未来は全身で深呼吸する。
「気持ちいいね、パパ!」
「そうだね」
 二人はしばらくその場に佇み、風景を楽しんだ。
 秋。
夏と冬を繋ぐ──中間の季節。
ものごとは移行する時期がもっとも美しいのではないかと、パパはそんなふうに思う。都会の喧騒の中にも、僅かながらでも季節を感じる風景があった。微かに黄ばんだ木の葉や、遠く高くなっていく青空。まるでパレットを手に描いていくような季節の光景に、パパは小さく溜息をついた。
「こんなに美しい世界を創った神様は、本当に大したものだよね」
 パパの何気ない言葉に、未来は大袈裟な程リアクションした。
「パパでも神様を信じるの?」
 未来にしてみれば、パパの一言はとてつもなく意外だった。幽霊の話に興味がないようだから、てっきり神様のことだって信じていないのかと思ったのに。
「神様――というのは、僕にとってはあくまでも『通り名』かな。僕にとっての神様は、この宇宙を生み出すきっかけとなったエネルギーであり、森羅万象の源さ」
 いかにもパパらしい答えだ。未来はふくれっ面で呟く。
「……なぁんだぁ。つまんないよ、そんな神様」
「だったら、未来はどういう神様がいいの?」
「未来だったら――優しい神様がいいな。優しくて、いつもそばにいて、どんな時でもみんなのことを信じてくれて、淋しい時には慰めてくれるの」
 そこまで言って、ハタと未来は気がついた。
「あのね、『パパみたいな神様』!」
 屈託ない娘の誉め言葉に、パパは照れ笑いを浮かべた。
「嬉しいけど……身に余りすぎるなぁ」
 そう言って、頭を掻く。

 ふと、未来が足を止めた。
 歩道の脇に、壊れかけた祠がある。見るからにおどろおどろしいその祠は、建っているというよりは放置されているという風情だった。未来は祠を指して尋ねた。
「……ねぇ、パパ。これも神様なの?」
「うん? ──そうだね、一応神様だ」
「神様って、何でいっぱいいるの? この前パパと行った神社にも神様がいるし、教会にも神様がいるんでしょ? それから、漫画に出てきたゼウス様もギリシャの神様だって言うし――エジプトにも神様がいるよね?」
「そうだね。気がつけば、辺り一面神様のオンパレードだ」
「そんなに神様がいたら、喧嘩しない?」
「神様同士は喧嘩しないよ。でも、その神様を信じる人間同士は、すぐに喧嘩するね」
「どうしてなんだろ」
「お互い、『自分の神様だけが真実だ』って言い合うからさ」
「誰がそんなことを言うの?」
「一応『神様が言った』ということになっているけど――どうなんだろうね。だって、考えてごらん。神様が世界を創ったのだとしたら、一部の限定された人達だけに祝福を与えると思う? そんなことするぐらいなら、最初からその人達以外を産まなければいいだけじゃない?」
「――うん。確かにそうかも」
「僕が思うに――神様っていうのはその国の文化が派生する為の、いわゆる思想の基盤だったんだろうね。社会を統制させる為に、一番納得のいく方法で祭られた存在。だからこそ、国の文化や地域ごとに異なる神様が誕生した。いわば、神様の数は『文化の数』とも言えるんだと思う」
 まただ。パパと話していると、何故かいつも難しい話になってしまう。未来は「ふぅん……」と曖昧な返事をした。
「だけど、二十一世紀を迎えて、宗教や神様が誕生した頃とは打って変わって世界は小さくなりつつある。移動時間だって、乗り物の進化に応じてどんどん短縮され、行こうと思えばどこにでも行けるような時代になってきた。そんな中、いつまでも神様がいっぱいいるというのも、不自然な話だよね。もっとも、多数ある宗教や神様をなくせばいいなんて、そんな単純な話じゃ解決しない。『僕の信じる神様と君の信じる神様は違うけど、でも両方最高だね』みたいに、互いに認めあうようになれるといいんだけど――」
「そんなふうになれるのかな」
「どうだろうね。でも、もしも世界を創造した存在を『神様』と呼ぶのだとしたら、神様はひとりなはずなんだ。そのいろいろな側面を文化や地域によって表現したのが、今ある宗教なんだと思う。異なる思想背景や価値観を持っていたとしても、互いに享受しあうことが出来れば、世界はみんなで手を取り合えるようになると思うんだけどね」
 ソラは、二人のやりとりを歩きながら聞いていた。まだこの世に誕生して三ヶ月程度のソラだけど、どうしたことか、二人の会話の内容がわかるような気がした。
 ふと、その時だ。

「ケケケケケ」

 不気味な笑い声がした。
 ソラはその場で足を止める。急に立ち止まったソラに引っぱられ、未来も足を止めた。
「どしたの? ソラ」
 どうやら、この不気味な声も未来達には聞こえないようだ。威嚇するようにソラが唸る中、祠の中から黒い影が出てきた。煙が立ち上るように蠢きながら、嗄れた声で語りかける。

「……そうさ、そうそう。神様はひとつなんだよ。だって、『俺達が神様』だもんな」

 影はそう言うと、先端部を突き出すようにしてソラに近づいた。よく見ると、小さく顔があるように見える。その顔は、不気味に笑っていた。

「今日から、俺達が『ひとつの神様』になるのさ。他の神様は『いらない』。もう、準備は着々と進んでいる。もうすぐ、世界は俺達のものになるんだ。人間なんか、みんな消えちまえ!」

 その言葉に、ソラの全身が戦慄いた。同時にけたたましく吠えたてる。
 飛びかかりそうな勢いで吠えたてるソラを後目に、高らかに笑いながら影は宙に渦巻く奇妙な闇に吸い込まれていった。それでもソラは、天に向かって吠え続けていた。あまりの剣幕に、未来は怖くて手が出せなかった程だ。パパが代わりにソラを抱くと、落ち着くまで撫で続ける。そんなパパに向かい、未来が怯えるようにしてこう言った。
「……ねぇ、パパ。ソラ、絶対に様子がおかしいよ。きっと、何か怖いものを感じているのかもしれない。お医者さんだったら、ソラのことを分かってくれないかなぁ」
 未来の提案に、パパも「そうだな」と承諾した。

 日曜日の午前中だというのに、どうしたことか動物病院の待合室は大入り満員だった。中の異様な雰囲気に驚いて、パパも未来も戸口でしばらく佇んでいた程だ。
 ベンチに座った飼い主達の腕の中で、様々な動物達が怯えたように騒いでいる。どの子もソラと同じような症状であることに気付き、パパも未来も顔を見合わせた。
 パパが受付で手続きを済ましている間、未来はソラを抱いてベンチの隅に腰を下ろした。居心地悪そうに肩をすくめる未来の耳に、声が聞こえた。

「僕ちゃんも、怖いもの見ちゃったの?」

 未来はビクリと体を震わせた。
 振り返ると、隣りに座る上品な老婦人がこちらを見ていた。皺の中から覗く目は青みがかっていて、日本人離れした顔つきだ。唖然としたまま答えられない未来に向かい、老婦人は構わず話し続ける。
「あなたが抱っこしてる『僕ちゃん』。僕ちゃんにも、何か見えたんでしょ? それで、さっきから吠えてるンじゃないの?」
 老婦人の視線は、未来に抱かれたソラに注がれている。
 不思議な老婦人だった。口調は穏やかだが、確信をもって未来に問いかけてきたからだ。
「……ど、どうして? どうしておばあちゃんには、それが分かるの?」
「私はね、動物達の言ってることがわかるのよ。この子達もね、今朝から落ち着かなくて大変なの。『不気味な黒い影が見える』って、ずっとそう言うのよね」
 そう言って、老婦人は膝に抱えていたケージと、足下にあるケージを差しだした。そこにはひょろっと細長い体つきのフェレットと、まん丸なウサギがいる。二匹とも、怯えるような目で未来を見上げた。
「どっちの子が、そんなことを言ってたの?」
 老婦人は、小刻みに震えるウサギを指し示した。
「この子よ。ピピンが、最初に『怖いものが見える』って、そう言ったの。アークは、お調子ものの上に勘が鈍くてね。ピピンが言い出してからしばらくした後、アークにも見え始めたみたい」
 アークと言うのは、どうやら足下のフェレットらしい。ケージの中で「クゥクゥ」と鳴いている。
 未来は不思議な気持ちがした。目の前にいる老婦人が、何だか魔法使いのように思える。動物の声が聞こえるなんて、そんなことがあるのだろうか。
「――あら! どうやら、あなたの僕ちゃんは声を聞いたみたいね。その声がとても怖いことを言ってたらしいわ」
「声?」
「ええ、そう。それも、歌のような――こんなふうに言ってたみたいね。『人間を滅ぼせ』とか……」
 その途端。ソラがいきなり吠えたてた。その吠え方は威嚇というよりも、まるで「そう、そうなんだ!」と言っているかのようだ。ソラを抱きながら呆然とする未来の耳に、パパの声が届く。
「どうかしたのかい、未来」
「パパ! このおばあちゃん、動物達の声が聞こえるんだって! ソラが何か怖いものを聞いちゃったって言ってるよ!」
 真剣に叫ぶ未来を前に、パパは足を止めた。失笑が、パパの耳に届いたからだ。
「……また始まったわ、あのおばあさん。すぐいい加減なことを言って、気を引こうとするのよ」
「ひとり暮らしだから、話し相手が欲しいだけなのにね」
 クスクスと、侮蔑するような笑いが聞こえてくる。
 パパはそんな陰口に嫌気がさした。老婦人への良からぬ評価を振り切るようにして、わざとこう答える。

「――それは素晴らしい! 是非、お話を聞かせてもらえませんか?」

 老婦人の話に興味津々の様子を示したパパを一瞥して、噂好きの女性達はさらに失笑を浮かべた。そんなことを気にも止めず、パパは老婦人の隣りに腰をかける。
「僕は、榊野尚人と言います。この子は娘の未来。今朝からソラの様子がおかしくて、心配していたんです」
 礼儀正しく自己紹介したパパに、老婦人も笑って会釈した。
「私はスカーレットよ。この子達はロップイヤーのピピンに、フェレットのアーク」
「ろっぷいやー?」
 首を傾げる未来に、スカーレットは笑顔で答えた。
「一応ウサギよ。ちょっとお耳が大きくて、垂れているけどね。うちの子達もね、今朝から急に騒ぎ出したの。最初はピピンが気がついたのね。何でも、黒い煙のようなものが、ぐにゃぐにゃしながら宙を泳いでるって。あとからアークも気がついて、それで二匹とも落ち着かなくなっちゃったのよ。何が起きているのかわからないけど、でも、一応安定剤をもらっておこうと思ってね。とっても繊細な子達だから、怯えて眠れなくなったら辛いでしょうからね」
 そう言って、老婦人は愛おしそうにケージの中にいるピピンとアークを見つめた。
「ねぇ、おばあちゃん。どうして急に、こんなことになっちゃったのかな」
「残念ながら、そこまでは私にもわからないわ。この子達も、事情はよくわからないようだし。ただ、ひとつだけ言えるのは、ここに来ている動物達みんなが、怖いものを見て怯えているということだけね」
 明確に答えたスカーレットに、パパは眉間を寄せてこう尋ねた。
「それは、自然現象に関わることですか? いわゆる、大地震とか――」
「さあ、どうなんでしょう。だけど、いずれにせよ何かがこれから、起ころうとしているのよ。それが世界にとって、悪いことでなければいいけれど――」
 ふとその時。診察室の扉が開いて、助手が身を乗りだした。
「ピピンちゃん、アークちゃん。お入りください」
「はぁい」
 スカーレットは代わりに返事をすると、ケージを両手に立ち上がった。診察室へ向かう腰のまがった背中を見つめ、未来は小さく呟いた。
「……一体、何が起こるのかな」
「さぁ、何だろうね」
 パパはそう言うと、溜息をついて足を組んだ。

 混雑していた待合室もまばらになってきた頃、やっとのことでソラは診察室へと呼ばれた。扉を開けると、中はまるで小さな動物園のように賑わっていた。ケージの中に、猫やモルモットやらの入院患者達がいる。
まだ年若い医師は、ソラを見つめながらパパから説明を聞いていた。しかし、顔を曇らせると深い溜息を吐く。
「一体、どうしたというのでしょうね。本当に、今日はそんな動物達ばかりです」
「やはり、この子達は何かを感じているのではないでしょうか?」
「どうでしょうね。ただ、何かしらの目に見えないエネルギーを感じて動物達が騒いでいるのは確かですよ。僕の家のニワトリも、普段は大人しいのですが今日は始終落ち着かなくてね。心配なので、ここに連れて来ています」
 視線で指し示した方を見ると、そこには雌鳥の姿があった。飼い主である獣医がつけたのか赤いチェック柄のエプロンを纏い、札には「クック」と書かれている。
「クック……ちゃん?」
「『ちゃん』づけはどうかな。もうそこそこのおばちゃんだから。養鶏所にいたんだけど急に卵を産まなくなったって言って、知り合いから譲り受けたんだ」
 ケージの中にいるクックは、そんなこともお構いなしの様子で「コケー! コケー!」と騒いでいる。愛情深く飼われていることが一目で分かり、パパは目を細めて微笑んだ。
「あなたのような方にもらわれて、この鶏も幸せですね」
「そうだといいですね。クックに聞いてみないと、わかりませんので――」
 そう言って笑うと、医師は再びカルテに向き合った。
「いずれにせよ、一過性のものと思いますよ。明日になれば、動物達も落ち着くでしょう」
 そう言うと、カルテに何かを書き記してパパに待合室で待っているよう指示をした。

 安定剤をもらって帰宅した後、ソラはその影響なのかしばらく眠りについていた。
 目が覚めると夜になっていて、榊野家ではもう夕飯の時間だった。せっかくの日曜日を半分以上眠ってしまったことに、ソラは心なしか悔いている様子だ。前足の上に顔を載せ、項垂れているソラを見て、未来も溜息を吐く。
「ソラ、まだ元気ないよ。大丈夫かなぁ?」
「大丈夫、心配ないよ。ソラはきっと、せっかくの日曜日に遊べなかったのが悔しいんだ」
「それなら、いいけど――」
 未来がそう言って視線を伏せた時。リビングボードの上にあるテレビの音声が、僅かに緊張を走らせた。「では、気になる台風情報です」と語るアナウンサーの声に反応して、パパの視線がテレビ画面へと向けられる。
 ちょうどそこには、黒板のような画面に白く日本列島が描き出されていた。その下には、まるで日本を半分呑み込んでしまうぐらいの大きな渦がある。中央にははっきりとした空洞があり、まるでひとつ目の妖怪のようだ。
「うわ! すっごく大きな台風!」
 未来が声をあげた。未来が姿勢を前出しにすると同時に、パパもリモコンで音量をあげる。
 映像は、台風の進路上にある島の様子を中継していた。音量を上げると共に、リポーターの背後で唸る風の音がゴウゴウと聞こえてきた。

「え――、まだ台風の中心部は島の南東沖50kmの海上にいるのですが……、ご覧下さい! まるで暴風域に入ったかのような強風です! 現在、風速四十メートル! 凄まじい勢いです!」

 リポーターは必死にその場で足を踏みしめ、状況を伝えていた。南方特有のパームツリーも、まるで折れそうな程にしなっている。波のようにアスファルトの上を凪ぐ雨水に、倒れた植木。いつもの台風実況とさほど変わらないように思いながらも、どこか違う緊迫感を画面から感じた。
「……すごぉい。こんなのが来て、大丈夫なのかな」
「どうだろうね。今回の台風は、かつて見ない程のものらしいからね。関東に来るまでの間に多少は規模も小さくなるだろうが、進路にあたる南の島の影響は酷いかもしれない」
「このあいだも、おっきい台風来たばかりだよ。なのに、どうしてこんなにしょっちゅう来るの?」
「――もしかしたら、地球の気候そのものが、どこかおかしくなってしまったのかもしれない」
「地球の気候――が?」
「未来も聞いたことあるだろう? 『地球温暖化』の問題を」
「うん。このあいだ、授業でやったよ」
「地球は今、次第に温かくなろうとしているという説があるんだ。異常な台風も、そうした原因が背景にあるのかもしれない」
「もしも地球温暖化がひどくなっちゃったら、世界はどうなるの?」
「世界は、今のような様相を保てなくなるだろうね。赤道直下周辺は砂漠化し、この日本も四季という美しい風情を味わうことが出来なくなるかもしれない。そんなふうになってもらいたくないものだが――どう止めていいものかも、わからないのが現状なんだ」
 パパは低く告げた。未来は、そんなパパの横顔をじっと見つめる。今のパパは、未来の知っているパパの顔ではない。環境学の研究者にして、かつ、自然保護を唱える活動家の顔だった。
 パパは、テレビで環境に関わる報道などを見るたびに、未来の知らないパパの顔になる。未来の知らない社会に生きるパパ――理想を追うひとりの男性、榊野尚人としての顔が覗くそんな瞬間が、未来にとっては誇りでもあり、かつ、淋しいものでもあった。いつもの優しいパパが、どこか遠くに行ってしまったかのように思えるからだ。未来はしばらくパパの顔を見つめていたが、やがて、目を伏せて箸をおいた。
 ふと、その時。
 未来の足下で横たわっていたソラが、ふいに顔をあげた。立ち上がると、テーブルの脇を抜けてテレビの前に立つ。
「ソラ。どうしたんだい」
 パパの呼びかけにも、ソラは反応しない。パパと未来に背を向けたまま、じっとテレビ画面を見入っている。
 ソラの耳には、台風の唸り声の中からあの恐ろしい歌が聞こえていたのだ。昼間、さんざん耳にしたフレーズが、再び蘇ってくる。


 人間を殺せ、ヘイヘヘイ

 この星の敵だ、ホウホホウ

 仲間を返せ、自然を返せ

 我らの世界を、取り戻せ


 瞬時にソラは吠えたてた。
 テレビ画面に向かって、まるで恐ろしいものでも見たかのように懸命に吠えるソラを見て、未来とパパは顔を見合わせた。即座に腰をあげてソラの元に走り寄る。
「どうしたんだ、ソラ!」
 パパがソラを抱き上げる。ソラがあまりに暴れるものだから、未来は怖くて手が出せなかった。暴れるソラを抱え込みながら、パパが叫んだ。
「未来、テレビを消すんだ!」
 未来は慌ててリモコンを手にした。
 プツッ……という音と共に、静寂が戻る。
 すると、ソラも急に吠えるのをやめ、パパの腕の中で大人しくなってしまった。未来はリモコンをもったまま、呆然とパパを見上げた。
「一体全体、ソラはどうしちゃったんだろう」
「僕にもよくわからないよ。だけど――もしかしたら、ソラや他の動物達の様子がおかしくなったことと、台風などの異常気象は、まったく無関係じゃないのかもしれないね」
 パパはそう告げると、腕の中でクンクン鼻を鳴らすソラの頭を優しく撫でた。
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