第2章 旅立ち
 おかしなことばかりが続いた日曜日も、まもなく終わりを告げようとしていた。窓の外で聞こえていた車の音も今はだいぶ静まり、コチコチコチ……と時計の秒針だけが部屋に響き渡っていた。
 ソラは、今日の異変などなかったかのように、大人しくソファーの横で眠りについている。今日一日ソラの様子がおかしかったことを心配したパパは、未来が寝室に戻った後もずっとソラに付き添っていた。ソラの表情をすぐ窺える位置に腰を下ろし読書に耽っていたが、ソラがぐっすり眠っている様子を確認した後、小さく欠伸をしてから寝室へと戻っていった。
 ソラ達がいる空間には、恐ろしい声も黒い影もいなかった。まるで、何かに守られているかのように、影は入り込むことが出来なかったのだ。おかげでソラは、いつもと変わらずに穏やかな眠りにつくことが出来たし、いつもと同じように夢の中へといざなわれることが出来た。

 夢の中で、ソラは大きな扉の前に立っていた。闇色の何もない空間の中で、扉だけが宙に浮かんでいるのだ。まるで真空状態のようなそこでは、僅かな音さえ聞こえない。どこか息苦しい程の重々しさを携えて、扉がどっしりと構えているだけだ。
 ふと、その時。

「――おかえりなさい、ソラ」

 突然、声がした。
 びっくりしたソラは、慌てて辺りを見回した。しかし、そこには誰もいない──。

「だ……誰なの?」

 ソラの問いかけに、鈴の音のような声が聞こえてきた。
「私は、あなたのそばで、いつもあなたを見守っている者。そして、あなたを導く者……」
「──僕を、導く?」
「そう。あなたは気がついていないけれど、あなたが生まれた時からずっと――いえ、あなたがこの世に誕生するずっと以前から、あなたのそばにいるのです」
 ソフトで柔らかい口調は、まるで母親のような暖かみを感じさせた。そのせいか、ソラの中にも少しずつ安堵感が広がっていった。

 ふと、どこからともなくフワフワと光が現れた。螢のような柔らかい光は、ソラの前で舞うように動いている。声は、どうやらこの光から聞こえてくるようだった。
「あなたに、お願いがあります」
「お願い? 一体、どんなこと?」
「『彼』を探して欲しいの。そして、『彼』を助けてあげて」

「彼?」

 ソラは首を傾げた。
「彼って、どこにいるの?」 
「――わからない。でも、彼の『こころ』がとても危険な状態になっているのがわかる。一刻も早く、彼を助けて。彼のこころを救ってあげて」
 あまりに抽象的な願いだった。彼というのが人間なのか、それともソラと同じ犬なのかさえわからないのだから。
 だが、光が真剣に助けを求めてくることだけはわかった。事情を何ひとつ呑み込めていないソラだったが、気がつけば首を縦に振ってしまっていた。
「――わかった。でも、どうやって彼を探せばいいの?」
「彼は、『どこにでもいる』。この世にも、そしてあの世にも――」
 ますますわからない解答となってしまった。きょとんとしているソラに向かい、再び声が語りかける。
「あなたは今日、黒い影をみたでしょう? それに、声を聞いたでしょう? 恐ろしい歌を――」
 ソラの脳裏に、ことあるごとに聞こえてきた声が蘇る。
「あれが……あの黒い煙のようなものが、あなたの探している彼なの?」
「いいえ。黒い影の集団である『猛霊(もうりょう)』は、厳密に言えば彼ではなく、そして、彼でもある――でも、彼の一部であることに、間違いはない」
「あの煙は、世界中あちこちにいっぱいいるよ。どこを探せばいいのかわからないよ」
「心配しないで。彼は『どこにでもいる』。だから、『彼の一部』も──ここにいる」
 ギィーッという重い音と共に、扉が口を開いた。
「……ここに?」
「――そう。『ここ』に」
「ここはどこなの?」
「行けばわかるわ」
 ソラは恐る恐る中を覗いた。
 扉の向こうは真っ白な霧が立ちこめ、何も見えない。その先に道があるのか、砂漠があるのか、もしくは海が広がっているのかさえ、まるで見当がつかなかった。

「――さぁ、行きなさい。行って、彼のこころを助けてあげて」

 声が遠ざかっていく。ソラは慌てて光を探した。
「ねぇ、待って! 僕、どこをどう進んでいいのかわからないよ!」
「大丈夫。あなたが歩けば、道が出来る。あなたが進もうとした先に、世界が出来る」
 声はそう語りながら、スゥーッと消えてしまった。

「ねぇ……、光さんってばぁ……」

 呼びかけても、もはや返答はなかった。
 しかたなく、ソラは歩き出した。恐る恐る、慎重に足を踏み出す。
 周りはただ真っ白なだけで、何も見えない。何も聞こえない。恐怖に駆られながらも、ただひたすら真っ直ぐ進んでいった。
 やがて、徐々に霧が晴れてきた。
 眼前に広がったのは夜の街だ。それも、見慣れた街。未来と何度も散歩で通った街が、今、ソラの前に広がっている。しかし、どこか重い空気が満ちていた。ピリピリと刺すような鋭い気が、辺りを包み込んでいるのだ。

 ソラは一瞬、自分がどこで何をしているのかわからなかった。街灯だけが灯る薄暗い通りを、ソラはとぼとぼと歩き出した。周辺には誰の姿もなく、奇妙なことに車さえ一台も通らない。時折吹く風がアスファルトの上にある空き缶を転がし、カランカラン……と虚しい音を響かせた。
 ソラは足を止めた。

 ──周囲に気配を感じる。

 街のいたるところから、ソラを狙うような視線を感じる。襲いかかってきそうな気配に、ソラの全身は硬直した。
 すると、街灯によって出来た影達が突如蠢きだした。それらは低く唸り声をあげながら、まるで形をもった闇のように這い出し、ソラに襲いかかってきたのだ。
 ソラは驚いた。吠える余裕さえなく、「キャン!」と一声あげてその場から逃げ出した。
 しかし影の速度は速く、瞬く間に追いつかれてしまった。
 抗うすべなく、ソラは影に呑み込まれてしまった。

 長い間、上下も左右もわからない闇の中で彷徨った後、ソラは漸く意識を取り戻した。
 だが、はっきりと覚醒することが出来ない。それどころか、徐々に自分が分裂し、複数に分かれてしまうような恐怖を感じた。必死に心をひとつにしようとした、その時。

「人間の罪は重い!」

 その叫びに、分裂しかけたソラの心がひとつになった。
 闇の中、どこからともなく聞こえる声は耳元ではっきりと響いた。

「人間の功罪は、いくら挙げてもキリがない! 奴らは、自分達がもっとも優れていると思い込んで、我々生物の頂点に自分達をおき、やりたいように生きてきた! この星があたかも自分達の所有物であるかのように、勝手し放題生きてきた。その結果がどうだ! 自業自得とも言うべき環境汚染に、戦争、略奪。だが、しかし! そこに巻き込まれるのは、我々動物であり、森であり、山であり、自然なのだ! 人間はこの星に不要だ! 我々が神となって、世界を征服するのだ!」

 ――神となる?

 そう言えば、昼間の変な黒い奴もそう言っていた。
 一体、今世界で何が起ころうとしているのだろう……、ソラは漠然とそう思う。
 その時。ソラの耳に、あの不気味なメロディーが聞こえてきた。


 人間滅ぼせ ヘイヘヘイ 

 奴らを蹴散らせ ホウホホウ 

 我らを殺し、世界を殺した 

 人間を消せ ヘイヘヘイ 


 人間を殺せ ヘイヘヘイ 

 奴らは敵だ ホウホホウ 

 地球を殺し、未来を殺した 

 人間に罰を ヘイヘヘイ


「やめて! 人間は敵じゃない、友達だよ! 人間を殺したりしないで!」
 ソラが叫んだ、その時――。


 ――違ウ!

 辺り一面に声が響いた。
 驚いてソラは顔をあげる。四方八方から反響するように聞こえた声の主を捜そうとした。
 すると、目の前に黄金色の大きな眼があった。眼はギロリとソラを睨み、こう告げる。

 ――人間ハ『敵』ダ! 人間ハ、地球ヤ我々ヲ滅ボソウトシテイル。

 その時、ソラは気がついた。自分を包みこんでいる「闇」が、ソラにそう語りかけているのだと。ここにある「闇全体」が、まるで生き物のように意志を持っているのだと。
 途方もない恐怖と向き合ったまま、ソラの意識は再び遠ざかっていった。

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