第3章 動物だけの世界
 ソラが目覚めた時、辺りはもう明るくなっていた。いつもは小鳥のさえずりや、カーテンの隙間からほのかに射し込む日の光で夜明けの訪れを知るというのに、どうしたことか今日はまったく気付かなかったようだ。
 何度も首を傾げながら、現実を確かめる。
 すごく怖い夢を見ていたような気がする。街を歩いていたら、黒い影に襲われる夢。夢とは思えない程リアルな感覚がするも、それがどういった意味を示すのかソラにはわからない。ただ、目覚めたことだけに安堵するだけだ。
 だが、その安堵感も長くは続かなかった。

 家の雰囲気が、いつもとはどことなく違う……。
 大体、外がこれだけ明るくなっているのにパパも未来も家にいないかのように静かなのだ。

 ソラは飛び起きると、窓の前まで移動した。すでにカーテンは開けられていて、外の光が部屋の中に射し込んでいる。しかしどこにも太陽はなく、広がるのは白くどんよりと濁った空だけだ。曇っているようだが、かといって雲の畝があるわけでもなく、水に白い液体を混ぜ合わせたかのように無表情な空が横たわっているだけだった。

 ソラは訝しそうに首を傾げた。
 カーテンが開いているということは、パパが開けていったに違いない。未来だって今日は学校のはずだから、家を出る前には必ず「いってくるね!」と声をかけていってくれたはずだ。それにも関わらず、ソラは気付かずに今まで寝ていたというのだろうか。それとも、今日に限って未来達は、まるで空き巣のように抜き足差し足で出ていったとでもいうのだろうか。

 ソラは気になって、未来の部屋へと行ってみた。
 すでに扉は開けられていた。部屋のカーテンも開けられており、白くぼんやりとした光が部屋の奥まで射し込んでいる。机の横には、新品同様に輝く真っ赤なランドセルがちょこんと掛けられていた。いつもの未来の部屋とは思えない程整頓されていて、漫画本も所定の位置にきちっと収められている。
 ソラの全身が、ゾクッと総毛立った。
 ソラの勘は、未来の部屋を包みこむ「無機質さ」に危険なものを感じ取っていた。
 機械的な程整った部屋――人の気配はなく、作られた生活空間だけを演出している部屋。どこか気味の悪いものを感じたソラは、数歩後退りした後、一目散に部屋を後にした。逃げるようにして、パパの部屋へ飛び込む。
 しかしここも、未来の部屋同様ベッドのシーツは皺ひとつないぐらいぴっしり整っていて、本もすべて手が触れられた様子がないほどにまで整頓されている。不気味なぐらい整理されていて、不気味なぐらい静かだった。壁の中央に掛けてある時計だけが、コチ、コチ、コチ……と一定に音を刻んでいる。

 ソラは絶叫したくなった。
 何かとてつもなく恐ろしいことが起こったような、そんな気がした。
 未来とパパが、忽然と姿を消したのだ。昨日の「おやすみ」を最後に、突如いなくなったのだ。
 どこかに出掛けたのではない。
 学校に行ったのでも、仕事に行ったのでもない。
 明らかに、「この家から消えてしまった」。
 ソラは何度も頭を振ると、地団駄踏むようにジャンプした。
「うぉん! うぉん、うぉん!」
 悲痛な声で吠えると、俯すようにしゃがみこんで顔を埋めた。

* * *


 ──どのぐらい時が経っただろう。
 ソラはベランダに座り込んだまま、外を呆然と見下ろしていた。

 空は白んだまま暮れもせず、かといって明るくなることもなかった。雲ひとつない天候だが、太陽までどこかに姿を消してしまっている以上、今が夕方なのか昼前なのかさえ、わからなかった。
 パパの部屋にある時計は何度も同じ盤を廻り、時刻もまったくわからない。壊れたレコード盤のごとく同じところをなぞるだけなのだ。
 すべてがまるで、静止しているかのようだった。
 少しずつソラは、ここが「今までいた世界ではない」ことに気付いていた。
 ここにこうして長いこと座っていても、道は誰一人通らない。時折風が唸るように吹き荒ぶだけで、人の笑い声さえも聞こえて来ない。いつもなら耳障りな車のクラクションも、まったくソラの耳に届かなかった。
 ソラは、だんだん哀しい気分になってきた。
 ここが「知らない世界だから」ではない。
「未来達がいなくなってしまったこと」、それが何より哀しかった。
 こんな気味の悪い世界でも、未来やパパがいればへっちゃらだと、ソラはそんなふうに思う。
 ソラは何よりも、孤独な状況が辛くて仕方なかった。顔を伏せ、声を殺して泣きだした――その時。

「ごめぇーんくぅださぁーい」

 間延びした声が、ソラの耳に届いた。
 いや、きっと幻聴だ。風が吹いているから、それが人間の言葉に聞こえただけだ。そう思い返して、再びソラは哀しみに浸ろうとした……が。

「ごめぇーんくぅださぁーい。どなたかぁーいらっしゃいませんかぁー」

 幻聴じゃない!
 二度に渡って聞こえた声に、ソラは瞬時に反応すると、勢いよく姿勢を戻してベランダから飛び出した。部屋を突っ切り、玄関へと向かう。
 誰でもいい。とにかく、無事な人間を確認したい。
 ひたすらその思いで走り続けたソラは、玄関に辿り着いた瞬間――。

 ――愕然とした。

 玄関先にいたのは、人間ではなかった。
 今まで、見たこともない生き物。
 否――見たことはないが、知っては……いるような気がする。遠い記憶の中で、触れあったこともあったような気がした。

 呆然と佇むソラの前には、二本足で立つ「ヤギ」の姿があった。郵便局員の制服を身に纏い、大きな鞄を肩から下げている。絶えず口をモゴモゴと動かし、唇の隙間から時折紙片のようなものが覗いた。

「なぁんだぁ。あぁんまり出てこないモンだから、留守かと思ったよぉー」

 そう言って、大事そうに握っていた封書を口に運ぼうとした。口を無意識に開けた途端、「おぉっとぉ」と慌てて手を下ろす。
「……危ない、危ない。まぁた手紙を食べちゃうところだったぁよぉ」
 口から覗く紙片は、どうやら届ける予定の手紙類だったようだ。ヤギはバツの悪そうな笑みを浮かべると、封書をソラに指しだした。
「あんたんとこにぃ手紙だよぉ。『選挙管理委員会』からねぇ」
 差し出された手紙は、ヤギの蹄に貼り付いている。手紙の文字とヤギの顔を、ソラは交互に見つめた。差し出されたところで自分は受け取る手もなければ、読む知恵もない。あまりに長いことソラがポカンとしているのを見て、ヤギは大きく溜息を吐く。
「なんだぁ。あんたぁ、『ここ』は初めてかい。こいつぁ珍しいねぇ。生きてる動物が、この世界に迷いこむたぁ――」
 ヤギの言っている意味がわからず、ソラは首を傾げた。
「やぁれやぁれ。まぁったくやんなっちまうねぇ――。手紙届けるだけじゃなくぅ、この世界のノウハウまでぇ、教えなくっちゃならんたぁねぇ」
 そう言って、ヤギは鞄を床に下ろした。自分の目がソラの視線と同じ高さになるよう腰を下げると、ソラの大きな瞳を見つめてこう言った。
「……ほれ。『喋って』みぃ」
 ソラはますます首を傾げた。
 喋ってみろと言われても、言葉などよくわからない。とりあえず、いつも通り吠えてみることにした。
「ワン!」
「ちがぁうよぉ! 『喋る』んだよぉ、『喋る』のぉ! 儂みたいにぃ、舌使ってぇ――」
 そう言って、ヤギは長い舌をべろべろと動かしてみせた。
「ほれ。わかったら、やってみぃ」
 ソラはきょとんとしていたが、とりあえず舌を出してみた。しかし反射神経でつい「ハッハッ……」と呼吸をして終わってしまった。
 ヤギは溜息を吐いた後、息を深く吸い込んだ。突如目を見開くと、腕を大きく伸ばしてソラに襲いかかる。

「べぇろべろべろべろ――――っ!」

 舌が引きちぎれんばかりに振り回すヤギの行為と声量に驚いて、ソラは背後にひっくり返ってしまった。腰をついたまま後退すると、胸に手をあてながら何度も目を瞬きする。

「び・び・び……びっくりしたぁ!」

 そう言った後、大きな目を何度もパチクリさせる。
 現状が受け入れられず、首を傾げてさらに瞬きした。

「――あれ?」

 ソラは仰天した。
 何たることか。今、自分は言葉を発したではないか!
 ソラは慌てて口をつぐんだ。頬をパシパシと叩き、顔をあげる。

「ぼ……僕、喋ってる!」

 ソラの驚きを前に、ヤギは満足げに頷いた。
「そぉそぉ。そぉれでいいのだぁ――」
「ぼ……僕、何で喋れるの? 何でここにいるの? それに、おじさんは誰?」
 ヤギは「チチチチ」と舌打ちした。
「喋れるようになったからってぇ、いっぱい質問しちゃぁ駄目ぇ。それ、ルール違反」
「だ……だって僕、わからないことだらけなんだもん!」
「最初に来た奴ぁ、みぃんなそういう反応さぁ。ちなみにぃ、儂もぉ、最初来た時はぁそうだったさぁ。今じゃぁ、慣れっこだけどねぇ――」
「ここにはおじさんと僕以外、誰かいるの?」
「あーあ、い――っぱいいるさぁ! 動物達や、絶滅した動物も。たぁだぁしぃ――」
 そう言った後、ヤギは徐に続けた。

「『人間はいない』けどね」

 低く囁かれた言葉に、ソラは息を呑んだ。
「どうして?」
「人間はぁ――儂らのぉ『敵』だからぁ」
「そんなことないよ!」
 ソラは思わず立ち上がった。
「人間は敵じゃない! 友達だよ! その証拠に、この家に住む未来ちゃんとパパはとってもいい人だよ! おじさんだって気に入るはずだよ! 絶対会わせてあげるから――」
「わかっちゃいないなぁ、ボウズ。この世界にぃ、人間は『いない』のぉ。だからぁ、この家にもぉ、人間はいないのぉ!」
「そんな! じゃぁ、未来ちゃん達はみんなどこにいるの?」
 ヤギは帽子をわずかにあげて、頭をボリボリと掻いた。
「そうさなぁ――。『元の次元』にいるとでも、言えばいいのかなぁ」
「もとのじげん?」
「三次元のことさ」
「三次元? じゃぁ、ここは?」
「ここはぁ……」
 ヤギは気まずそうに眉間を寄せ、首を傾げた。どうやら「何となく」の思いつきで言っただけだったらしい。しばらくありったけの知恵を振り絞って考えた後、ボソッと呟いた。
「たぶん……ここぁ『四次元』ってヤツだなぁ」
「なにそれ? どう違うの?」
「儂がそんなこた知るわけないだろぉ! まぁー、でもぉ……簡単に言えばぁ、人間達は『元の世界にいる』ってことでぇ、こことは違う世界にいるってぇわけだぁ」

 だんだんソラは、ヤギとの問答が面倒になってきた。とどのつまり、ソラにとっては「未来達に会えればそれでいい」のだから。

「じゃぁ僕、『元の世界』に帰れる? 僕、一刻も早く未来ちゃん達に会いたいんだ!」
「ん――、そればっかりはぁ、儂にもわからんねぇ。『神様』じゃないとぉ――」

「神様?」

 ソラは素っ頓狂な声をあげた。それと同時に、ヤギは何かを思いだしたようにポン、と手を叩いた。
「そぉそぉ! 忘れてたよぉ! これを届けに来たんだっけ」
 そう言って、再び封書をソラに差しだした。
「ほれ。受け取れって」
 急かすように封書をハタハタと動かす。
 ソラは躊躇うように封書を見つめていたが、手を伸ばしてそれを受け取った。不思議なことに、封書に書かれた文字がソラにも読めた。未来達人間が使う字とは多少違うようだが、意味は充分ソラにも伝わった。
 そこには、こう記されていた。

『神様選挙管理委員会よりお知らせ』

「……神様選挙?」
 ソラは不思議そうに首を傾げて、ヤギを見上げた。
「そぉ、『神様選挙』。今回は数百万年ぶりの選挙だぁ。その為に、地球上あらゆる動物達の魂が、みんなここに集まってるンだぁ」
「何でそこに、人間がいないの?」
「人間はもぉ、充分長いこと神様やったからなぁ。それどころかぁ、人間が神様になってからというものぉ、地球は戦争だの環境破壊だのでボロボロにされちまったぁ――。だからぁ、今回は人間の立候補の権利はないンだぁねぇ――」
 ソラはヤギの話を聞きながら、とてつもない不安を抱いた。
 そう。思えば、昨日から聞こえていた不気味な歌は、この選挙に参加する動物達の歌だったのかもしれない。人間を再び神様にさせないという、動物達の決意――。
「僕、神様選挙のこと詳しく知りたい。どうすればいいの?」
 ソラの質問に、ヤギは大きく頷いた。
「この通りをずぅ――っとまぁっすぐ行った先にぃ、おっきなドームがあるんだぁ。そこで『神様選挙説明会』が行われるからぁ、行ってみるといいなぁ」
「ありがとう!」
 ソラは元気よく礼を言うと、郵便局員の横を通り過ぎ外に出ようとした。――ところが。
「あれ?」
 ソラは足を止めた。
「どうした、ボウズ」
「いつもと、様子が違う」
 ソラが驚いたのも無理はない。ソラの住む家はマンションの十五階にある。それにも関わらず、扉の外はすぐ道路に繋がっていたからだ。訝しそうな表情で自分を見上げるソラを見つめ、郵便局員は「チチチチ」と舌を鳴らした。
「ここはぁ、元いた世界と違うって言ったでしょぉ」
 ソラはしばらく判然としない表情を浮かべるも、「そっか」と納得したように頷くと、玄関を後にした。

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