第6章 「祝福」という名の猫の、哀れな生涯
 それがどのぐらい前の話なのか、セレブレイトでさえよく覚えていない。遠い昔のような気もするし、つい最近だったような気もする。一番古い記憶の中で、セレブレイトは豪華な部屋の中で暮らしており、まるで骨董品のように扱われていた。

 セレブレイトが生まれた頃、血統書のある猫はブランド品のような扱われ方をしていた。多くの家族が雑種の猫を飼っている中、大枚をはたいて血統書付きの猫を飼うということ自体が、成功者の象徴と思われていたのかもしれない。当時の社会にとって、「お金持ちで裕福な暮らしをする」というのはあたかも「生まれてきた証」のように勘違いされていた。高級な猫として――その上、黄金色の瞳が高貴さを漂わせるという宣伝文句で取引されたセレブレイトは、一代で会社を築き上げた社長の息子に飼われることとなった。
 丁重に扱われてはいたが、愛情深く飼われていたというのとは事情が異なった。部屋に多く飾られた装飾品や彫刻と、セレブレイトの扱いは何ら変わりがなかったからである。

 セレブレイトは孤独だった。
 いくら気まぐれな性質を持つ猫とはいえ、飼い主に愛情がないことを肌で感じれば淋しさぐらい過ぎる。そんな中、セレブレイトの唯一の慰めは窓の外に広がる風景を眺めることだった。

 高層マンションの一室から窺える景色は、灰色の工場街ばかりだ。この景色がこうなる前は、戦後の焼け野原が広がり雑踏が複雑に絡み合うだけだったそうだ。すべてがゼロに帰した景色は、急激な景気回復と共に工場街へと転じていったのだ。
 窓から見える景色は、世界に色がついているとは思えない程、灰色と黄色と薄暗く淀んだ空だけだった。そんな世界でも、セレブレイトにしてみれば「すべて」だった。まだ子猫だったセレブレイトは、四角く象られた部屋の中で贅沢品に囲まれるだけで、世界に何が存在しどんな大地が広がるのかも知らなかった。

 ――いつか、自分の目で世界を見たい。
 そんな思いを抱くようになっていた。

 そんなある日のことだ。
 セレブレイトはいつものように昼寝から起きた後、餌欲しさに台所へと向かった。
 するとどうしたことか、いつもより早く帰宅した飼い主とその妻が、深刻な表情で向き合っているではないか。
 飼い主は泣いているようだった。顔を両手で覆い、肘をテーブルにつき肩を震わせている。一方、妻も顔を歪ませて涙を零していた。互いに何かを言い合うような様子はないが、ひどく絶望しているだろうことは窺えた。
 セレブレイトは妻の足下に行き、「にゃぁ」と声をかけてみた。しかし、妻は反応しない。震える声で、こう告げる。

「……これから、どうすればいいの? お義父様のご実家に引越すって言ったって、会社が倒産しちゃったらどうしようもないじゃないの。一体、どうやって暮らしていくのよ」
「――パパの知り合いが印刷工場をやっているから、そこで雇ってくれる……って」
 飼い主は項垂れたまま、嗄れた声で呟いた。
 突然、妻が立ち上がった。
「──印刷工場ですって? 馬鹿にするのもいい加減にして! 町工場程度で、今までのような生活が維持出来るわけないでしょ! 会社の役員しかしたことないようなあなたに、職人のような仕事が勤まるっていうの?」

 突如ヒステリックになった妻を見て、セレブレイトは後退りした。自分の餌どころではなくなってしまった事情を悟ったからだ。
 感情的になった妻に向かって、男も声を荒げる。台所は瞬く間に緊迫した空気に満ち、誰もセレブレイトに気付く者はいなかった。
 セレブレイトは静かに台所を去ると、大きな窓の前に立った。
 目の前に広がる工場街は、沈みかけた夕陽を受けてオレンジ色に染まっている。地平線近くまで傾いた太陽を見つめ、セレブレイトはこれから自分の身に起こることを考えていた。

 不安はない。
 だが、希望があるわけでもなかった……。

 一週間程が経過した頃。
 飼い主の夫婦は、親が暮らす実家へと引越しすることになった。
 慌ただしく引越の準備が進む中、セレブレイトは窓辺で昼寝をしていた。その折々で、こんな会話が耳に付いた。「この猫は連れて行けないわよ。うちのお父さん、大の猫嫌いだから」と。
 それが飼い主の母親の声であることを、セレブレイトもわかっていた。何か自分の身によからぬ事が起ころうとしていることも、薄々勘づいていた。

 嵐が吹き荒れ、大雨が地面を叩きつけた晩。
 ついに、予感していたことが起きてしまった。

 ほぼ引越が完了したセレブレイトの飼い主は、セレブレイトを乗せて車を走らせていた。
 どれほど走ったことだろう。都会の喧噪から遠く離れ、田舎にある一本道を走っている時のことだ。
 突如、キィーッと甲高い音をさせて、車が停車した。街灯もない中車を降りると、後部座席にいたセレブレイトを連れ出す。
 雨はすでに小振りになっていて、初夏を迎えたばかりの冷たい風だけが吹いていた。飼い主は傘もささずにセレブレイトを抱いたまま神社に入ると、軒下にセレブレイトを置いた。

「――僕は悪くないよ。パパが猫嫌いだからいけないんだ」

 そう言って、立ち上がる。
 ふと、何かを思いついたようにして再び腰を下ろすと、セレブレイトにつけていた金色の首輪を外した。上着のポケットにねじこむと、再び踵を返す。
 車のライトに向かって遠ざかっていく飼い主の背中を、セレブレイトは今でもはっきりと覚えている。背を丸め、小走りで逃げるように車へと戻るその後を、セレブレイトは追う気さえしなかった。追ったところで結果は一緒だと、そうわかっていたからだ。
 エンジンをかけると、車は何事もなかったかのように神社の前を通りすぎた。軒下にいるセレブレイトは、ただ雨の音に耳を澄ませた。

 世界が、今まで以上に近く感じた。
 だがそれは、セレブレイトが夢見ていたような、温かくて大きな存在とは言い難かった。

 その日から、セレブレイトの「生きるための闘い」が始まった。
 いつも決まって置かれていたキャットフードは、捨て猫となった今では期待出来ない。セレブレイトは自力で、食べ物を探さなくてはならないのだ。その上、このような地方では集落も離れて存在する為、食べ物を得るのも至難の技である。
 だが幸いにも、神社に毎朝お参りにくる老婆がセレブレイトの存在に気付き、日に一回餌を運んでくれるようになった。だが、それとて周辺に暮らす野良猫達との争いがあった。どこからともなく集まってきた野良猫達に、セレブレイトは何度餌を横取りされたかわからない。餌を差し入れてくれるからといって、安心出来ないのが野良猫の社会だった。

 そのうちに、セレブレイトは「闘って餌を勝ち取る」ということを覚えた。
 生きたければ、相手を傷つけてでも奪わなければならないことを知った。
 そうこうするうちに、セレブレイトは巷の野良猫よりも強い存在となっていった。そのたびに美しい毛並みは傷つき、気品の中に荒々しさが加わっていった。

 セレブレイトが闘わなければならないのは、何も野良猫達だけではなかった。野良犬は然り、そして人間達もまた、黄金色の瞳をした美しい黒猫であるセレブレイトに興味を持ち、捕らえようとしたからだ。
 追いかけてくる人間達を相手に、何度逃げ廻ったかわからない。セレブレイトの住処が神社の境内であることを知った人間が毎日のように押し寄せてくるので、セレブレイトは住み心地の良い場所を離れなければならない羽目となってしまった。
 それからの日々、セレブレイトはただひたすらに旅を続けた。
 車道に沿って、居場所を求めて延々と歩き続けた。ちょうどいい場所を見つけたと思っても、そこはすでに野良猫達の住処となっており、威嚇されて追い出されることも多々あった。セレブレイトには、もはや住まう場所さえ、どこにも存在しなかった。

 そんなある日のことだ。
 長い旅を経て成猫となったセレブレイトが小さな公園に立ち寄った時、一匹の子猫と出会った。
 子猫は首輪をつけていて、歩く度にシャラシャラと心地よい鈴の音を響かせる。白くて美しい毛並みからするに、どこかの飼い猫だろう。赤い首輪には金色の文字で「YUKI」と刻まれており、飼い主に愛されていただろうことを窺わせる。

 子猫はセレブレイトに気がつくと、にっこり笑って近づいて来た。野良猫となってすでにだいぶ時を経ていたセレブレイトは、すっかり警戒心の強い猫となっていた。屈託のない笑みを浮かべる小さな子猫でさえ、威嚇して追い払おうとした程だ。

「――俺に近づくな。噛み殺されたくなければ、とっとと失せろ!」

 恐ろしい言葉を吐かれても、子猫はきょとんとした表情で逃げようともしない。呆れたセレブレイトが背中を向け遠ざかろうとすると、あろうことか子猫が後を追ってきたではないか。

「ついてくるな!」

 セレブレイトは走り出した。しかし、子猫は懸命にその後について行こうとする。シャラシャラと追ってくる鈴の音を聞きながら、セレブレイトは「チッ」と舌打ちをした。そばにあった段差を使って器用にジャンプすると、壁の上に登った。
 体の小さな子猫にとって、壁の上はとても高くて登れない。子猫はセレブレイトを見上げ、淋しげな表情で「みゃぁ……」と鳴いた。
 いたいけな子猫の姿に、セレブレイトも罪悪感を抱いた。しかし、セレブレイトは一匹で生きていくのに精一杯だ。こんなに幼い猫を守る余裕など、まったくなかった。

「……野良猫の世界は、お前のようなガキが生きていけるところじゃない。大人しく家に帰れ」

 そう言い残し、壁の向こう側へと降り立った。
 遠ざかろうとするセレブレイトの耳に、哀しげな子猫の鳴き声が聞こえてくる。子猫は懸命に、セレブレイトに助けを求めている。「戻ってきて。お願い、戻ってきて」そう鳴いているかのようだ。

 走り去ろうとするセレブレイトの足が、次第に遅くなっていった。
 そして、遂に立ち止まる。
 その場でしばらく考え倦ねるように、目蓋を閉じて俯いていた。

「――クソッ!」

 そう言って、くるりと方向転換した。
 来た道を戻り、再び壁を乗り越えると、まだそこに子猫はいた。大きな瞳を瞬きしながら、セレブレイトを見つめている。
 セレブレイトは子猫の前にひらりと降り立ち、無言のまま子猫に近づいた。

「――どうして、家に帰らないんだ」

 低く問われた言葉に、子猫は顔を伏せた。
「帰り方が、わからなくなっちゃったの」
「家は、この近くなのか?」
「それもわからない。ご主人様が車でここまで連れて来てくれて、気がついたらみんな帰っちゃってたみたいだから――」

 セレブレイトは何も言わなかった。この子猫は気付いていないようだが、おそらくセレブレイト同様捨てられたのだろう。首輪をつけたままにしているのは、保健所に連れて行かれないよう配慮しているのかもしれない。そんな状況から察するに、おそらくはやむにやまれぬ事情だったのかもしれぬ。
 しかし、「生命を捨てた」ことに変わりはない。セレブレイトの飼い主のような身勝手な理由ではないとはいえ、どのみちこの子猫も人間から排斥されてしまった存在なのだ。

 だが、あえてセレブレイトはその真実を告げなかった。

「これからどうする気だ」
「お家に帰りたいけど――どこにあるかわからないし……」
 子猫はそう言って項垂れる。
 セレブレイトは、次第に子猫が気の毒になってきた。見たところ、まだ生まれて数ヶ月だろう。セレブレイトが捨てられた時はだいぶ成長していたが、こんなに幼いまま捨てられてしまったら、この厳しい猫社会で生きていけまい。

「――何なら、お前が家の場所を思い出すまで一緒にいてやってもいい」

 その言葉に、子猫は目を見開いた。
「ホント!」
「ああ。だが、『家を思い出すまで』だ。家が見つかったら、大人しく帰れよ」
「うん、わかった!」
 子猫は途端に元気になった。明るい笑顔で首を傾げる。
「私、『ユキ』っていうの。あなたは?」
「セレブレイト」
 仏頂面で告げた。
「セレブレイト? うふふ、面白い名前ね」  
 セレブレイトの無愛想など気にも止めず、ユキは無邪気に笑った。

 家を思い出すまで――。

 そう言ったものの、そんな時が決して来ないことをセレブレイトは知っていた。車で連れてこられたということは、ユキの家はきっと歩いて辿り着けない程遠くにあるはずだから。

 だが、いつしかセレブレイトは、ユキが家に辿り着けないことを祈るようになっていた。初めて孤独が癒されたセレブレイトにとって、ユキは大切な存在になっていたからだ。
 夏を迎え、秋が過ぎ、寒い冬が訪れた。
 様々に季節が廻る中、寄り添い合って生きてきた二匹の猫は、お互い愛し合うようになっていた。やがて寺の境内に自分達の居場所を定めると、二匹はそこで暮らし始めた。

 厳しい生存競争も、ユキを守る為であれば難なく乗り越えられた。そして、出会ってから二度目の春を迎えた頃、ユキはセレブレイトとの間に出来た「新しい命」を身籠もっていた。
 穏やかな暮らしに、愛する存在との間に生まれてくるだろう子猫たち。
 この時期が、セレブレイトにとってもっとも幸福で、もっとも満たされた時期だったかもしれない。


 ――しかし。
 悲劇は、突然訪れた……。


 それは、桜が散りかけた頃だった。
 季節外れの氷雨が数日に渡って降り続き、夕方ともなるとだいぶ視界が悪くなった。街灯もろくにない田舎町にある寺の周辺は、それこそ夕闇に包まれてしまい、出歩くこと自体困難な程だ。
 その日、セレブレイトは餌を探す為にいつもより遠出していた。そんなセレブレイトを軒下で待ち続けたユキだったが、あまりに帰りが遅いセレブレイトの身を案じ、探しに行こうと車道に出た。
 冷たい小雨がぱらつき、凍えるような寒さはユキの体に染みこんだ。もうすぐ生まれてくる子猫達を気にかけながらも、セレブレイトを探して道路を横切ろうとした時のことだ。
 ふと、向こう側にセレブレイトがいることに気がついた。

「あ、セレブレイト!」

 ユキの表情は安堵で緩み、セレブレイトの元へ駆け寄ろうとした――その時だった。

 猛スピードで、車のライトが近づいてきた。
 轟音と共に走るそれに気がついたユキは、思わずその場で足を止めてしまった。
 目が眩むほどの閃光に、ユキはただ呆然と立ちすくんだ──。

「ユキ、危ない!」

 セレブレイトの叫びと同時に。
 「ドン!」という鈍い音と共に、ユキの白い体が闇の空に舞った。
 勢いよく跳ねとばされたユキは天高くあがり、為すすべなく、冷たいアスファルトの上に叩きつけられたのだ。

「ユキ!」

 セレブレイトが駆け寄った。
 しかし、その叫びはユキの心に届くことはなかった。
 ユキは横たわったまま、静かに目蓋を閉じていた。濡れた路面に、ユキから流れ出た真っ赤な血が染みこんでいく。

 一瞬の出来事だった。
 一瞬で、ユキとユキの中に芽生えた子猫たちの生命が奪われた。
 一瞬で、セレブレイトの幸福はすべて砕け散ったのだ。

 ユキの命を奪った車は、まるで何もなかったかのように通りすぎていった。あれだけ真正面からぶつかったのだから、ユキを車ではねた自覚はあるはずだ。しかし、猫一匹の命など、その運転手にとって些細なものだったのだろう。
 セレブレイトは、全身から怒りが湧きあがるのを感じた。
 自分の無力さと、同時に人間達への憤りが、セレブレイトの心と体を貫いた。
 今までの生涯において、唯一の存在だったユキ。その存在は、新たに生まれてくる子供達と共に、儚く消えてしまったのだ。

「ユキ――――ッ!」
 セレブレイトの悲痛な叫びは、氷雨が降る夜の静寂に溶け込んでいった。


 ――こうして。
 セレブレイトは、再び孤独になった。


 一年近く住まいとしていた寺の境内からは、ユキを失ったその日のうちに旅だった。想い出のつまる空間に、僅かにでも長くいたくなかったからである。
 ユキがいなくなってからの旅は、知り合う前の旅よりも数倍辛かった。幸福な日々を知ってしまってから孤独に戻るのは、本当に苦痛なことである。まだまだ寿命の残る我が身を呪い、生きる屍のようにセレブレイトはただ歩き続けた。

 人間達に追われ、心ない罠に落ちたり、いろいろな経験を重ねるうちに、セレブレイトのこころには「闇」が巣くうようになっていた。
 恨みや憎悪、あらゆる負の想念は、気がつけばセレブレイトに「霊力」を与えていた……。

 そんなある日。
 セレブレイトの美に興味を持った人間が、捕らえようと追いかけ回していた。数日に渡ってあらゆる手を使われたセレブレイトは、ちょっとした油断で罠にかかってしまった。セレブレイトを掴んだまま、男達が言う。
「だいぶ野良歴が長そうな猫だ。こんなで売れるかな」
「なに。洗えば綺麗になるだろう。いざという時は、三味線屋に売るって手もある」

 そう言って袋にセレブレイトを詰めようとした、その時。
 セレブレイトは人間に飛びかかった。
 勢いよく顔を引っ掻かれた男は、カッとして手にしていた草刈り鎌を振り下ろした。

 鎌の刃先が、セレブレイトの左目に直撃した。
 額から頬にかけて鋭い痛みが走り、深くえぐられた傷から血が噴き出した。

「馬鹿! 何やってんだ! 顔に傷なんかつけたら売り物にならねぇじゃねぇか!」
「す、すまねぇ」

 言い合う男達を前に、セレブレイトの怒りはますます膨らんでいった。
 それは、セレブレイトの生涯を含めた「すべての怒り」だ。
 骨董品のように扱われた飼い猫時代、物のように捨てられた時。そして、ユキを失った哀しみと絶望――すべてが、目の前に立つ男達に向けられた。

 セレブレイトの全身から、おびただしい程の怒りの気が舞い上がった。
 ぞっとするような気配を感じ、男達は言い合いをやめセレブレイトを振り返った。

 そこには、薄暗い夕闇の中全身から気を放つ猫が立っていた。
 それはまるで、燃えさかる青い炎のようだった。青い炎の中で、闇色の神秘的な猫がこちらを睨んで佇んでいる。男達は真っ青になり、大声で叫んだ。

「ば、ば、化け猫だぁ――っ!」

 ひとりの男がその場から逃げ出した。もうひとりの男も逃げようとして背後に退いた後、手にしていた鎌を翳した。
「お、おのれぇ、かかか、かかってこい!」
 セレブレイトは、じりじりと男に近づいていった。
 男は後退りしながら、道路の方へ逃げようとしている。それを追い詰めるように、セレブレイトは距離を縮めていった。
 やがて高々と飛び上がり、男の顔めがけて飛びかかった。鋭い爪先で顔を引き裂いた後、再び地面に舞い降りる。

「うぎゃぁ――っ」

 男は顔を抑えたまま、狂ったように叫びながら逃げ去った。
 その場に残されたセレブレイトは、ただ荒く呼吸を繰り返した。
 横暴な人間を蹴散らしたとはいえ、残るのは虚しさだけだ。左目蓋から流れ出る血を止めることさえ出来ず、セレブレイトはひたすら痛みに耐えていた。

 翌日。
 左目を失ったセレブレイトは、旅を続ける気力もなく公園の片隅で休んでいた。
 すると、どこからともなく騒々しい声が聞こえてきた。その声に聞き覚えのあるセレブレイトは、僅かに体を起こした。傷のせいで思うように動かない体を引きずりながら、様子を窺いに行く。
 壁脇から覗くと、そこには昨日の男達がいた。他に三名の男を連れている。制服姿をしているところから、男達が保健所の人間を連れてきたことを悟った。

「すごく危険な猫なんだ! 見ろ、俺のこの顔を。ここの傷なんて、三針縫ったんだぞ」

 男はセレブレイトから受けた傷を見せて、必死に主張している。
 何を言っているのかと、セレブレイトは呆れた。セレブレイトは、何もしない者に攻撃をしたことなど一度もない。我が身に危険が迫った上、傷を負わされたからこそ、その反撃に出ただけだ。
 しかし、そんな事情を保健所の人間が知る由もない。何とも不平等な話だと、セレブレイトは思う。

「あんな猫、生きていたら子供達に危害を及ぼすかもしれないぞ。さっさと捕まえて殺してくれ!」

 男達が何故保健所の人間を連れてきたか、すべてが判明した。もしかしたら報復のつもりなのかもしれない。
 だが、それさえもセレブレイトはどうでもよかった。もう、楽になりたい――そんな思いしかなかったからだ。
 ふと、その時。

「いた! いたぞ、あそこだ! あの壁の横にいる猫!」

 男が興奮したように叫んだ。同時に、保健所の男達がセレブレイトに向かってくる。
 セレブレイトは踵を返した。別に、生きたいという思いはない。だが、人間に囚われて殺されることだけはご免だった。
 逃げ出したセレブレイトを、男達は総出で追った。左目の傷は未だ激しく痛み、全身は怠くていつもの何倍も体が遅く感じる。それでも、捕まりたくない一心で、セレブレイトは走り続けた。

「早く捕まえろ!」

 男がいきり立って叫ぶ。
 セレブレイトは公園を出ると、そのまま道路を突っ切ろうとした。

 その時。
 横から、勢いよく近づいてくる車が目に映った。
 このままの速度で走り抜ければ、轢かれることは免れる。
 ――しかし。


「俺は、動かなかった」
 セレブレイトが語った。  
「そこを動かなければどうなるか、わからなかったわけじゃない。いや、むしろ『わかっていた』んだ。だが、あえて動かなかった。もう……こんな生涯は、終わりにしたかった」


 セレブレイトが道で足を止めた直後。
 車は、勢いよくセレブレイトの体をはね飛ばした。
 空が間近に迫った。
 そして急激に遠ざかった後、全身に激痛が走り、まるで何かが破裂するようにして意識が遠のいた。


「その後のことを、俺はよく覚えていない。気がつけば、この世界にいたんだ」
「ユキさんとは……ユキさんと子猫たちには、会えたの?」
 ソラの問いに、セレブレイトは首を横に振る。
「未だかつて、あいつには会えない。この『嘆きの都』から俺が解放されない限り、ユキと俺は会えないのかもしれない──」

 そう語るセレブレイトの目は、とても哀しそうだった。
 美しい毛並みに優美な体、しかし、その生涯の厳しさを物語るかのように、潰れてしまった片目。
 セレブレイトのことが、ソラは心底気の毒だった。何て言葉をかけていいのかさえ、わからない程だった。
 しかし、それを聞いても尚――ソラの中にある人間への信頼が、失われたわけではなかった……。

「これでわかっただろう。人間が、どれほど身勝手かということを。人間にしてみれば俺やユキの命なんか大したことじゃない。だが、俺達にしてみればただひとつの、大事な命なんだ」
 語り終えたセレブレイトを見つめ、ソラはただ黙っていた。
 この世界は、恨みを持った動物達の世界。
 そのあまりに深く、重すぎる意味が、漸くソラにもわかりかけていた。

「この話を聞いてもまだ、人間を庇う気になれるか?」

 ソラは、しばらく考え倦ねた。
 セレブレイトの生涯は、本当に気の毒だ。確かに、自分がセレブレイトの立場であれば、同じように人間を憎んだだろう。
 だが、ソラはそうではない。それどころか、榊野家の溢れる愛情の中で育てられた。その想い出を、ソラは裏切ることが出来なかった。

「……ごめんなさい、セレブレイトさん。セレブレイトさんの辛さは、僕にもよくわかるよ。でも、僕はやっぱり、未来ちゃん達が大好きなんだ! その気持ちを、裏切ることは出来ない。だから僕は、やっぱり――人間を守りたい……」

 語尾は弱く、かすれていた。
 それは、セレブレイトの辛い生涯を聞いた中で、それでもソラの決意を表明していた。セレブレイトの怒りもよくわかる。だがそれでも、大好きな人達を守りたい。
 その気持ちが、セレブレイトにも理解は出来た。
 だが、ソラが未来達を見捨てられない気持ちと同様に、セレブレイトも、ユキを失った憎しみを捨てられなかった。

「――そうか。なら、勝手にしろ。お前との縁は、もうここまでだ」

 呟くように言うと、セレブレイトはソラに背を向け、静かに歩き出した。
 ソラは、セレブレイトを黙って見送った。
 本当は一緒にいたい――。
 でも、セレブレイトの心情を思うと、そう言うことさえ申し訳ない気持ちになる。
 セレブレイトの後ろ姿は徐々に遠ざかっていき、やがて見えなくなった。

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