第8章 嵐の前兆
 10月も終わりに近づくと秋はますます深まりを見せ、空が明るく輝く時間もだいぶ短くなってくる。夕方四時を過ぎると太陽はすぐにも西の地平線彼方へと沈みたがり、まだまだ遊びたい盛りの子供達に淋しい思いを抱かせた。
 そんな中、未来はひとりでとぼとぼと道を歩いていた。公園の遊具にぶら下がる同級生達の横を通り過ぎても、顔をあげようとすらしなかった。

 未来の頭の中は、ある日突然姿を消したソラのことでいっぱいだった。
 いなくなった前日の晩、ソラはいつもと変わらず居間のソファー脇に寝そべっていたというのに。おやすみのキスをすると、嬉しそうに鼻を鳴らして尻尾を振った姿だって、まるで昨日の出来事のように覚えている。深夜、トイレに起きた際覗いた時にはまだ、気持ちよさそうに寝息をたてていたというのに――。

 朝、目覚めてみると「ソラはどこにもいなかった」。
 ドアには鍵がかかっていたので、ソラが出ていけるはずがない。勿論、窓もロックがされている。それにも関わらず、忽然とソラは姿を消してしまったのだ。
 パパと一緒に家中は勿論、近所もすべて探し歩いてみたが、ソラはどこにもいなかった。いつもは見慣れた街角が、未来にとって見知らぬ世界に思えた程だ。こんなにも街が大きいなんて思わなかった――そう感じる程に、未来はソラを探し求めた。

 それから三日三晩。
 未来は泣き続けた。
 普段は元気で明るい娘の憔悴ぶりに、パパは心底心配したに違いない。

 そうこうして、ソラがいなくなってからはや一ヶ月が経過した。
 どんなに日数が経っても、依然ソラの消息は掴めないままだ。パパと未来が徹夜で作り、電信柱のあちこちに貼った「うちのソラを探してください」のビラも色褪せ、テープが剥がれかかっている。
 電信柱に貼られたソラの写真を見つめ続ける未来の瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
 さんざん泣き尽くしたというのに未だ涙が残っていることが、未来には不思議でたまらなかった。どれほど写真を見つめても――きっと穴があくほど見つめたとしたって、ソラが帰ってくるわけではないことを痛感した未来は、踵を返して道を歩き始めた。
 毎日ソラと通った散歩のルートを逆に進みながら、マンションへと向かう。エレベーターで十五階まであがると、通路奥に位置する家へと向かった。
 鍵をさしこみ、扉を開けても、そこで未来を待っていてくれる人は誰もいない。この時間パパはまだ仕事だし、今となってはソラだっていないのだ。

 ところが。
 今日は、いつもと様子が違った。
 扉を開けた途端、美味しそうな匂いが漂ってきたのだ。
 甘くとろけそうなこの香りは、未来が大好きなマフィンを焼く匂いに違いない。
 未来は目を見開くと、靴を脱ぎ捨て急いで台所へと向かった。

 そこには、茶色のフワフワとした髪の毛を後ろで結び、佇んでいる女性の姿があった。オーブンを覗く背中に気付いた瞬間、未来の表情に明るさが戻った。

「祥子(しょうこ)姉ちゃん!」

「あら、未来ちゃん。──おかえりなさい。今日は塾じゃなかったのね」
「祥子姉ちゃん、いつ来てたの? 今日は泊まっていけるの?」
 はじけるような笑顔を浮かべる未来をみて、祥子は僅かに声を落とした。
「――ごめんね、今日は無理なの。おじいちゃんを病院に連れていく約束をしているのよ。……だけど、明後日また改めて、『未来ちゃんを迎えに来るわね』」
 その言葉に、今まで明るく輝いていた未来の顔が瞬時に曇った。

 未来にとって、「とても嫌な言葉」を聞いてしまったからだ……。

 祥子はパパの妹だ。未来達の住んでいる街から電車で三十分程のところで、両親と一緒に暮らしている。両親の他にも、二歳になる息子の大地(だいち)と、夫である仁(ひとし)の計五人家族だ。
 未来は、パパの実家に預けられることがたびたびあった。そして、そんな日は決まってパパが遠くに行ってしまい、しばらく不在になる時だった──。

「……ひょっとして、パパ。また遠くに行っちゃうの?」

 淋しそうに項垂れる未来を見つめ、祥子は小さく頷いた。
「――急に決まったんだって。さっき、電話をもらったの。……ほら、また季節外れの大型台風が近づいてきているでしょ? その関係で、お仕事の依頼が入っちゃったらしくて」
 祥子は、どこか申し訳なさそうに告げた。

 みるみるうちに、未来の瞳に涙が溢れる。
 祥子も、そんな未来を悲痛そうな表情で見つめていた。
 未来がどれほどパパのことを――自分の兄である尚人を思っているか、祥子はよくわかっていた。堪えきれず溢れた涙を零す未来の前で、祥子は腰を屈めた。ポケットからハンカチを取り出すと、未来の目蓋を優しく拭う。

「そんな顔しないの! パパだって、一週間もすればお仕事を終えて帰ってくるんだから。それまでの間、『祥子ママ』の子になって、元気に待ってようね」

 祥子は愛情を込めて、優しく語りかけた。
 祥子の想いは、未来も充分理解していた。母のない榊野家に何かあると、決まって祥子が手を貸してくれる。病気の父を持ち、その上二歳になったばかりの息子がいるにも関わらず、祥子は嫌な顔ひとつせずに兄と姪の面倒をみてくれるのだ。
 だからこそ、あまり祥子に迷惑をかけたくない。祥子を困らせるようなことはしたくない――未来はそう思うと、泣き叫びたい気持ちを必死に堪えて、出来る限りの笑顔を浮かべた。

 未来は、祥子のことが大好きだ。パパによく似ていて、とても優しい叔母だからだ。
 勿論、叔父にあたる仁も嫌いじゃない。会社が忙しくてほとんどお喋りする時間はないが、よく遊園地や動物園など率先して連れて行ってくれる。
 そして、従兄弟の大地も、祖父の隆人(たかひと)も大好きだ。

 ──だが、祖母の君子(きみこ)だけは、どうにも苦手だった……。

 祖母はやたらに口うるさく、その上ヒステリックなのだ。
 大地が生まれてからというもの露骨な程大地をえこひいきするので、未来は居場所に困ってしまう。
 いつもはママのことを思い出さない未来でさえも、実家に帰るとそうはいかなかった。祖母が祥子相手に「あの女のせいで、尚人は苦労する羽目になった」だの「未来を尚人に押し付けて、いい厄介払いのつもりだろう」だのと悪口を言うからだ。
 もう八年も前の話なのに、まるで昨日起きた出来事のように、繰り返し繰り返し、未来が隣の部屋にいようとお構いなしに悪口を続ける。どんなに祥子が窘めても、祖母の口の悪さだけは治らなかった。
 きっと祖母は、悪口が趣味なのだ。パパが実家に近寄らなくなった理由がよくわかると――未来は子供心にそう思った。

 未来にとってパパの実家は、憂鬱な空間でしかない。
 しかし、そんな実家で明後日からしばらく暮らさなければならないのだ。ソラのことも気に掛かっている未来にしてみれば、さらなる悩みが増えたようなものだ。心がズシリと重くなり、未来は何度も溜息を吐いた。


 夕方、祥子と入れ違いにパパが帰ってきた。軽く挨拶を交わした後、祥子は「明後日、また来るわね」と言って自宅へと戻っていった。
 祥子が準備してくれたおかげで、今日はテーブルの上に手料理がたくさん並んでいる。仕出し屋で買ってくる惣菜ばかり並んだいつもの食卓とは違い、暖かみを感じさせる食事風景となるはずが、何故か今日はそうならなかった。
 無言で食事をする未来を気遣ってパパが話しかけても、未来は一言も返さない。未来が拗ねてしまっていることに気がつくと、パパは困ったように笑った後、黙って食事を続けた。
 入浴を済ませ、ホットミルクを飲みながらも、未来は心がどこか遠くへ行ってしまっているかのような、そんな虚ろな目をしていた。居間のソファーに深く腰掛け、両手でマグカップを持つ未来の隣りに、パパも腰をかけた。

「――お、未来。美味しそうなの飲んでるね」

 パパがくだけた口調で話しかけても、未来は何も言わない。膨れっ面を浮かべながらミルクにフゥフゥ息をかけ、上目遣いでテレビを見ている。
 頑ななまでにストライキを続ける娘を前にして、パパは小さく苦笑した。
 こういう時、何て言葉をかけていいのか、パパにはよくわからなかった。娘が拗ねている理由――それは、明らかに「自分」にあるのだから。それを棚にあげて未来の態度を怒るということが、どうしてもパパには出来なかった。
 だからこそ、未来が心を開くまで一緒にいよう──そう思った。そんなパパの姿勢は未来にも伝わり、氷のように固くなってしまった未来の心を少しずつ解かしていった。

「――ねぇ、パパ」

 漸く、未来が口を開いた。
「何だい?」
「明後日から、どこへ行くの?」
 未来は出来るだけ平静を装いながら尋ねた。そんな健気な姿勢は、パパにも充分伝わっていた。だからこそ、パパは未来を子供扱いすることなく、誠心誠意を込めて本当のことを伝えたい──そう思った。

「日本の北西にある島だ。自然の美しい島なんだけど、そこの一角を占領している企業が森を手当たり次第伐採していてね。今回の台風で、土砂崩れが起きるかもしれないって言われてるんだ」
 パパは、視線をテレビに合わせたまま続けた。

「今年は異常気象が続いているせいか、こんな季節でもまだ大型台風が来てるだろ? このままでは雨水を含みすぎて、その工事現場一帯の地盤が脆くなる危険があるんだ。だから、その企業の社長と話し合って、これからの開発を考え直してもらうよう交渉しに行くんだよ」

 未来は、じっとテレビを見据えたまま話に耳を傾けていた。
 その島のことは、先日パパから聞いている。リゾート地を開発しようと、ある建設会社が島の一角を買い取ったのだとか。だが、急激な開発により斜面が脆くなってしまったのだ。行政が入ろうにも法を犯しているわけではないので、対処は後回しとされ、住民達はいつ土砂崩れが起きるかと不安の日々を送っているのだそうだ。

「人災というのはね、起こしてから対処しても意味がないんだ。しかし、行政は法律に拘束され、後手後手に廻ることが多い。出来るだけ被害を最小限に食い止める為には、僕のような専門家が出向いていって、話し合いの場を持つしかないんだ」

 そう語るパパの目を、未来は一生忘れないだろう。凛々しい少年のような瞳をしていたからだ。
 だが今日の未来は、心からパパの仕事を応援する気にはなれなかった。
 大型の台風がたて続けに来ているせいで、島の人達は心底不安な生活を強いられていることだろう。
 だが、今は未来だって「心に台風を抱えている」。
 ソラがいなくなって不安で哀しい日々を送っている自分を置いて、何故遠い島に行ってしまうのか――未来は不満で仕方なかった。

「その『こうしょう』は、パパじゃなくちゃ駄目なの? 他の人じゃ駄目なの?」
「――うん。僕の講義に参加してくれた受講生から、直接依頼されちゃったからね」
「でも、まだソラだって見つかってないんだよ? ソラをこの家で待っていてあげたい時に、どうしてパパはそんな依頼を受けちゃったの? パパにとって、ソラは家族じゃないの?」

 未来の非難に、パパは困ったような表情を浮かべた。溜息を吐いた後、絞り出すように語る。
「ごめん……。僕だって、未来と一緒にソラのことを待っていたいよ。だけどね、僕に助けを求めてきた人がいる以上、どうしても断れなかったんだ」
「どうして? パパは、未来やソラよりも、その人達の方が大事なの?」
「そんなことないよ」

「嘘!」

 突如、未来が叫んだ。
「パパはそんなこと言いながら、いつだっていなくなっちゃうじゃん! その間、未来がどれほど淋しい思いしてるかわかってるの? 未来が、おばあちゃん家でどれだけ辛い思いしてるかも知らないくせして、そんなふうに言わないでよ!」

 未来の叫びに、パパの目が見開かれた。
 今まで、未来がこんなふうに感情を爆発させたことはなかった。明るくて元気で、そして前向きな未来が、こんなふうに怒りをぶつけてきたことは一度もなかった。
 だからこそパパは、この叫びが「いかに深刻なものなのか」を理解した。

 ――未来の心が、こんなにもボロボロに傷ついていたなんて……。

「パパ、本当は未来のこと『邪魔』なんでしょ? おばあちゃんが言ってたもん。『ママはパパに未来を押し付けて、いい厄介払いが出来た』って。『未来がいなければ、いくらでもパパはお嫁さんが見つかるのに』って。未来は、パパにとって厄介者なんでしょ? だから、いつでもパパはすぐにいなくなっちゃうんでしょ!」

 未来は溢れる涙を拭うことさえ出来ず、何度もしゃくりあげながら叫び続けた。
 そんな未来を、パパは黙って見つめた。何も言わず、諭すことさえなく、ただじっと、未来の瞳を見つめている。
 パパの瞳は、いつも以上に優しく、いつも以上に慈愛を感じさせた。
 だからこそ未来は、パパの目を見ているうちに冷静さを取り戻した。
 だが、心が落ち着いてくるにつれ、自分がとてつもなく酷いことを言ってしまったような、そんな気がしてならなかった。パパに申し訳ない思いでいっぱいになり、ひくつきながら小さく呟く。

「ごめ……なさい……」
「――いいんだ、未来。……いいんだよ、謝らなくていい」

 パパは未来の肩を寄せると、静かに抱き締めた。
「それよりも、僕の方こそごめんね。未来に、こんな淋しい思いをさせているなんて思わなかった。だけど、今まで一度だって、未来のことを厄介者だなんて思ったことはないよ。それだけは、信じてくれるかい?」
「……うん、信じる。だけどね……」

 未来は言葉を言いかけて、そこから先を言っていいものか悩んでいる様子だった。しゃくりあげながら涙を拭う未来に、パパは優しく尋ねる。

「だけど――なに?」
「だけど……私は、パパの子供なのに……それなのに、パパは血の繋がりのない人達ばかり優先しているような気がするの」

 未来の言葉を、パパはじっと聞いていた。
「この前ね、サキちゃんが言ってたの。『結局、辛いことがあったら信用出来るのは親だけだ』って。血が繋がってる親子しか、信用出来ないって。でも私、パパに頼りたくても――パパにすがりつきたくても、パパ、気がつくといなくなっちゃってるんだもの。気がつくと私、ひとりぼっちになっちゃってるんだもの。そんな時、未来は誰に助けを求めたらいいの? 誰に抱き締めてもらえばいいの?」
 未来はまた辛くなったのか、体を震わせて泣き始めた。

 ――血の繋がりのある者同士の絆。
 その背景にある社会的な意味を、パパだって充分わかっている。
 だからこそ、パパはこう告げることしか出来なかった。

「未来。僕はね、血の繋がりなんてさほど重要じゃないと思っているよ」

 意外な言葉に、未来は驚いたように顔をあげた。

「逆に聞くけどね、未来。未来がこうして、僕のことを思ってくれているのは――血の繋がった親子だからなの?」

 切り替えされた問いに、未来は即座に首を横に振った。
「ううん、違う。パパが、『大好き』だから……」
「――ありがとう。僕も、未来が大好きだよ。でも、『大好き』であることに、血が繋がっているかどうかなんて関係ないよね。そう思わない?」

 未来は優しく語るパパの瞳を、じっと見つめていた。

「未来。これだけは忘れないで。僕は、どんなに未来と離れていたって、未来のことをいつだって想っている。僕と未来を繋ぐのは、血縁なんかじゃない――『心の繋がり』なんだってことを、絶対に忘れないで欲しい。そして、未来は僕にとって大切な娘なんだ。それだけは、信じて欲しい」

「……うん。わかってる、わかってるよ……」
 未来は繰り返し呟くと、堪えきれずに声をあげて泣いた。

「――今回の仕事が終わったら、出来る限り未来に淋しい思いをさせないで済むよう考えるよ」

 その言葉に、未来は顔をあげた。
「ほんとう?」
「ああ、本当だ。だから、今回だけは我慢してくれるかい?」
 パパは、今まで一度だって約束を破ったことはない。
 未来は「うん、わかった。我慢するよ」と言うと、再びパパの胸に顔を埋める。そんな未来を、パパはいつまでも優しく抱き締めていた。


 ――出来る限り、未来に淋しい思いをさせない方法。
 その方法が「たった二つ」しかないことを、パパはわかっていた。

 ひとつは、パパがこの仕事を辞めて、未来と常に一緒にいられるような仕事に就くこと。
 そしてもうひとつは、未来の「新しいお母さん」を探すこと。

 この両者の狭間で、パパは心底悩んだ。
 旅立ちを前にした夜でさえ、パパはどうしても寝付くことが出来なかった。ソファーに深く腰を下ろしたまま、これからのことを考え倦ねる。

 自然を守る今の仕事に、パパは信念を感じている。お金の為ではない、やり甲斐や使命感を持って今まで仕事を続けてきたからだ。
 もっとも、未来だってそのことをよく承知している。だからこそ、仮にパパが未来と一緒にいる為に仕事を辞めるなどと言おうものなら、未来は自分のせいだと思ってしまいかねなかった。

 では、残る選択肢はどうだろうか。
 未来の為に、母親を探すという選択肢――それも、なかなか即決は出来ない。家族を作るということは、それこそ大変な道だ。それどころか、万が一新しい母親と未来が仲良くなれなければ、元の木阿弥どころかかえって悪くなってしまいかねない。
 様々に思いを廻らせるも、結局すべて堂々巡りになってしまい、気がつくとパパはソファーに腰掛けたまま眠りについていた。


 旅立ちの当日。
 荷物の準備をする為家にいたパパは、祥子と二人きりで話す機会がもてた。始終物憂げな表情を浮かべる兄を見て、祥子はクスリと笑う。
「なぁに、お兄ちゃん。そんな憂鬱そうな顔しちゃって。未来ちゃんにそんな顔見せたら、あの子すごく心配するわよ」

 そう。今のパパの顔は、明らかに一人の男――榊野尚人としての顔だった。
 未来が尊敬し憧れているパパは、寛大で優しくて、滅多に怒ることのない人格者だ。しかし、そんなパパもある一面では人生の過程で学ぶ、一人の男に過ぎないのである。

 今、尚人は父親として、そして、男としての岐路に立たされていた。

「――実は、祥子に相談したいことがあってね」

 絞り出すようにして告げられた言葉に、祥子は目を見開いた。
「あら。出来のいいお兄様が、平凡な主婦である私にどんなご相談かしら?」
 そう言って、屈託なく笑う。
 どんな皮肉も、祥子が言うと嫌味っぽく聞こえないから不思議である。気心知れた妹の素振りに、悩み続けていた尚人も幾分癒された。
 思えば、この仕事を父子家庭で続けていられるのも、妹である祥子の協力があってこそだ。しかし、祥子にも子供がいる上、実家の両親まで看てもらっている。これ以上、妹には甘えられない――そう思った尚人は、祥子にこんな話を持ちかけた。

「今回の仕事が一段落したら、本気で結婚相手を探そうと思っているんだ」

 風変わりで個性的な生き方を貫く兄から出た意外な言葉に、祥子は驚きすぎて手にしていた急須を宙で止めた程だった。大きな瞳を何度も瞬きさせて、目の前に座る兄を見つめ返す。
「……ど、どうしたっていうの、お兄ちゃん。あれほど、結婚する気はないって豪語していたのに。一体、どういう風の吹き回し?」
「――僕じゃない。『未来の為』だ」

 祥子の前で、兄は口元で組んだ手を外すことはなかった。伏し目がちで何かを考え倦ねているだろう兄に向かい、祥子は小さく苦笑した。
「らしくないわよ。そんな中途半端な気持ちで奥さんを見つけたって、相手の方が気の毒よ。それに、未来ちゃんの為って言うけど――結婚することが本当に未来ちゃんの為かどうかなんて、当人にしかわからないわ」
「だけど、僕がこの仕事を続ける以上、こういうふうに家を空けることがこれからだって多々あるだろう。そのたびに、あの子をひとりにさせておくわけには行かないし――」

「子供を甘く見ないで」

 祥子はぴしゃりと言い放った。
「確かに、未来ちゃんはお兄ちゃんのことが大好きよ。だから、お兄ちゃんがいなければ淋しいことも事実だと思う。それに、うちのお母さん、『あの性格』でしょ? お兄ちゃんも想像出来ると思うけど、未来ちゃんに結構辛くあたってるのよ……」

 妹の言葉に、尚人は表情を歪めた。
 ――そう。母がどういう性格かは、尚人もよくわかっている。だからこそ、自分は実家と縁を切ってしまったのだ。その実家に、自分の仕事の時だけ未来を預けるということが、とてつもなく身勝手なようにさえ感じた。

「だけどね、子供は自分の力で幸福を掴んでいくものよ。両親が揃っていないと子供が幸福になれないなんて、そんなの大人の勝手な思い込みだわ。それに、結婚することがかえってあの子の為にならないかもしれないじゃない? もし、自分の存在が原因で父親が多くのものを犠牲にしたと知ったら、大人になった時未来ちゃんはどう思うかしら。それこそ、本当に自分は邪魔者だったんだって、そう思ってしまうかもしれないでしょ?」

 祥子の言葉に、尚人はじっと耳を傾けていた。

「だから、お兄ちゃんは自分に誇りを持って、『自分のやるべきこと』を貫いてちょうだい。信念を持って生きていれば、必ずいつか、未来ちゃんにもそれが伝わるわ。――大丈夫。お母さんとの軋轢なら心配しないで。私が必ず、あの子を守ってみせるから!」

 祥子の言葉は力強く、それでいて優しかった。真っ直ぐ自分を見つめる妹を、尚人は見つめ返す。
 いつのまに、妹はこんなに強くなっていたのだろう。子供の頃は、いつだって自分の後について歩いて来ていたのに。いつだって、自分の背中に隠れていたのに。
 いつのまにか母としての強さと知恵を携えるようになった祥子のアドバイスに、尚人は心底感謝したい気持ちだった。

「――ありがとう、祥子」

 兄の素直な態度に、祥子も照れたように笑う。
「どういたしまして。こんな妹でよければ、いつでも力になるわ」
 祥子の笑顔を前に、尚人はこんなふうに感じた。

 ――僕や未来が生きていけるのは、自分達だけの力じゃない。みんなの力が、協力があってこそなのだ、と。

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