第14章 それぞれの闘い
 「未来の父親」という役割はひとまず自宅に置いて、「環境ジャーナリスト」としての役目を纏って、尚人は北西にある島へと旅だった。

 港に着いた頃には、前代未聞と言われる程の大型台風が翌日には関東に上陸すると言われていた。しかし、台風が上陸するより早く日本列島を横断するようにかかっていた低気圧が活発化し、すでに台風が来ているかのような大雨が続いていた。
 その影響で、尚人が乗った新幹線も大幅に遅れてしまった。無事港まではついたものの、尚人が乗る予定の便を最後にしばらくは欠航になる見通しだという。運良く船に乗ることは出来たが、こんな状況では島に何日滞在することになるのかまったく予想出来ない。最小限の荷物に留めてしまったが、生活用品をいくつか島で買い足す必要がありそうだと、尚人はそんなふうに思った。

 大シケにより、波は高くうねっていた。不安定な揺れのせいで、僅かに目眩も感じる。だが、大学時代も含めれば十年以上こんな生活を続けているせいか、船酔いもだいぶ軽くなっていた。

 尚人はふと、自分の想い出に意識を投じた。
 幼少期から十二歳になるまでオーストラリアで暮らしていた尚人は、いつも自然と共に育っていた。オーストラリアは自然も豊富だが、一度山火事になるとユーカリの油分を含む木は瞬く間に燃え広がってしまう。何十年もかけて育まれた自然の恵みが一瞬の炎で焼き尽くされるという悲劇を、尚人は目の当たりにしたのだ。

 そんな悲劇を見てしまった衝撃で、自然から一時離れてしまった尚人だが、東京に戻ってきて以降、自然からかけ離れた生活を送ることに違和感を抱き続けていた。
 尚人にとって、自然は隣にあるものであり、恵みだからだ。
 大学時代から「自然環境保護」に関わってきた尚人は、いつしか環境に関する執筆活動を始め、ペンで環境保全の為の活動をしてきた。個人でNPOを立ち上げてからというもの、環境に関わる相談は増加する一方だ。
 生活の為ではない、信念の為の仕事を続ける尚人だが、そんな尚人にも悩みがないわけではなかった……。

 ――僕は、いつまでこの仕事を続けていられるのだろうか。

 二十七歳で父親になって以来、尚人は常にその悩みを抱えていた。
 父としての顔に、信念を守ろうとする理想家としての顔。妹の祥子は全面的に応援してくれているものの、いつまでも妹夫婦の善意に甘えるわけには行かないだろう。

――今回の仕事が終わったら、活動を縮小させよう。父親として、もっと未来と一緒にいる時間を作ってあげなければ。

 そう思いながらも、判然としない何かを尚人は引きずっていた。
 顔をあげると、夕闇に包まれた海がどす黒く不気味な色彩でうねっている。荒れる風に抗うようにして、汽笛が何度も雄叫びをあげた。尚人の前髪は吹き荒ぶ風に靡き、眼鏡に波の水滴がつく。

「いやはぁ、ひでぇ嵐になりそうっちゃ」

 突然話しかけられた。
 振り返ると、人懐こい笑顔をした老人が立っている。島の住人なのだろうか、太陽の下で焼けただろう小麦色の肌には年輪のように多くの皺が刻まれていたが、年齢にはそぐわない程明るい瞳をした、小柄で可愛らしい老人だ。

「こんじゅう(先日の)嵐ん時もしばらく船出せんかったに、まぁたこんなじゃ儂ら漁師はおまんまの食い上げっちゃ」

 尚人は表情を曇らせた。
 目の前に立つ老人は明るく笑って言うが、本来ならばそんな余裕は見せられない程深刻なはずだ。
 もともとこの島は、台風の被害などほとんどなかった。しかし、今年に関しては季節外れの台風が押し寄せるだけでなく、周辺の低気圧が刺激される影響で長雨が続いている。農作物の被害が甚大なのは言うまでもないが、強風を伴う長雨の為に船さえ出せず、漁にも出られない。政治家やマスコミも、島への影響に注目している程だ。

「今、島の皆さんはどうされているんですか?」
 尚人の問いかけに、老人は「いやはぁ」と言って頭を掻いた。
「みぃんな、なんもしとらん。なんも出来んしなぁ。わけぇもん(若者)は一時出稼ぎにでとるけ、儂らはただボーッとしとるだけっちゃ」
「――そうですか」
「まぁ、お天道様の都合じゃけ、こればかりは仕方ねえっちゃ」
 そう言うと、老人は皺の深い顔をくしゃりと笑って見せた。踵を返し、船室へと戻っていく。尚人は老人が去った後も、甲板の手すりに腕を置いたまま、外の様子を見ていた。

 ふと、その時だ。
 風のうねりと共に、妙な囁きが聞こえた。
 耳を澄ますと、聞こえてくるのは風の音だけで、囁きは消えてしまった。

 ――気のせいか。

 そう思い、船室に戻ろうとした、その時。
 再び、囁きが聞こえてきた。
 それは、言葉で何かを繰り返している。
 幻聴じゃないことを悟った尚人は、瞬時に踵を返すと手すりから身を乗りだした。
 ゴウゴウと吹き荒ぶ風の中に、それは歌のように繰り返されていた。


 人間滅ぼせ、ヘイヘヘイ 
 奴らを蹴散らせ、ホウホホウ――



「まさか!」

 尚人は耳を疑った。
 そう。確か、動物病院で知り合ったスカーレットが言っていなかったか。
 ソラが恐ろしい歌を聞いたとか――。

「人間滅ぼせ、か……」

 ふと口にしてしまった。
 その時、今起きているすべてのことが、幻想的な何かでも現実から切り離されたものでもなく、リアルな真実みを帯びて尚人に迫ってきた。
 ソラが消えた理由も、巨大化した台風が何度も押し寄せるのも、あちこちで干ばつが起こり、山火事がおさまらず、スコールのような大雨が続くのも――すべては、自然界による人間達への報復なのではないだろうか。

 尚人はしばらく呆然としたまま、甲板に立っていた。
 今、自分達は途方もなく大きな力に呑み込まれようとしているのではないか?
 そして、その力は、自分達が自然や目に見えないものに対する畏敬の念を失ったが為に、それを気付かせようとして起こっているのではないだろうか。
 そう思うと、尚人はこれから訪れる出来事に一抹の不安を感じずにいられなかった。

* * *


 港を出て一時間程すると、目的地の島が見えてきた。自然を讃える小さな島が、今回仕事の舞台となる。フェリーの先端部に立ち、尚人は前方を見据えた。
 海岸に、ひとりの青年が立っていた。
 依頼人の水島亮介(みずしまりょうすけ)だ。
 水島は遠目で尚人に気付くと、小さく会釈をした。フェリーの入港にあわせ、港へと小走りで向かう。

 尚人がフェリーから降りた時、ちょうど水島が入ってきた。ハァハァと息を弾ませ、満面の笑みを浮かべる。

「ようこそ、榊野さん! ご足労おかけして、本当にすみません!」

 そう言って、握手を求め手を差し伸べた。軽く握るだけでも、掌の皮の厚さやマメで固くなった感触がわかる。水島の手は、自然と共に生き、自然を守ってきた手だ。

 水島は、尚人と同業者である。
 両者共に自然や地球環境、動物達の環境を守ることに信念をかけているが、尚人はペンを武器に執筆活動や交渉など頭脳派として活動を展開しているのに対し、水島はレンジャーとして直に自然と交わる肉体派だ。その違いを表すかのようにして、水島の体格は尚人よりもひとまわり程大きい。筋肉質で、肌の色も太陽の下でさんざん働いたことを象徴するように黒々としている。痩せ身の上に色白の尚人は、同業者としてどことなく引け目を感じてしまった程だ。

「こちらこそ、遅れてしまってすみませんでした。強風の影響で新幹線が遅れてしまってね。危うく、フェリーの最終便に間に合わないかと思いましたよ」
「しばらくの間、フェリーは欠航になりそうですからね。いやぁ、今日来て頂いて本当に良かったです」
 そう言うと、水島は尚人からスーツケースを受け取った。車まで誘導するように歩き出す。

 尚人は、歩きながら港の様子を観察した。
 この島には、今までにも観光で何度か訪れたことがある。日本に浮かぶ島の中では比較的大きな方だが、それでも本土から離れているという条件はいろいろな意味で負荷がかかる。特に、今年のような異常気象による台風の続発は、この島にとって多大な影響があることだろう。

「しかし、変ですよね。日本でも北西に位置するこの島が台風の影響にあうなど、今まではほとんどありませんでしたよ」
 早足で歩きながら水島が言った。
「地球温暖化の影響で、世界全体の気候が変わっています。台風も大型のものが増えている関係上、進路も多少変わってきているのでしょう」
「一体、日本はこのままどうなっちゃうんでしょうね。亜熱帯地方のように雨期と乾期だけになるなんて噂もあるけど――四季を感じられなくなるなんて、俺は嫌ですよ」
「そこまでになるのはまだまだ当分先の話とは思いますが――それにしても、今の環境を守ることが先決であることは、言うまでもないでしょうね」
「俺もそう思いますよ。だからこそ、榊野さんの講義に参加させて頂いたんです」
 水島はそう言うと、車の脇に立ち鍵をあけた。二人は車に乗り込むと、夕闇に包まれた港を後にした。

 水島と尚人が知り合ったのは、三日前に行われた環境イベントでのことだった。尚人はそのイベント企画会社から、講演を依頼されていたのである。
 今までにも尚人は、環境保全に関する本を何冊か出版している為、水島はすでに本を通じて尚人の名前を知っていた。水島自身、東京にある環境関係の専門学校を卒業しており、タンザニアの国立公園でレンジャーをしていた経験があった。
 故郷の自然を守りたいという信念から、昨年この島に戻ってきた水島は、島に生きる野生動物達の調査や、島の自然を守る為の活動を地道に展開させている最中だった。
 ところがそんな折り、観光を活性化させるという目的でリゾート開発の提案があがったのだ。景気回復を願う島の住民と、あくまで自然を守ろうという住民とで意見は分断された。その話し合いにも参加した水島は、両者の折衷案をとり、「自然を破壊させない範囲で」という条件付きで、リゾート開発承諾書にサインをした。
 しかし、いざ開発工事が行われてみたところ、そんな契約はまったくといっていい程無視されていたのだ。急激に土地を切り開いたが為に、地滑りの危険があちことに出来たのだ。行政に意見書を提出しても、実際に地滑りが起きているわけではない以上工事を止めさせるわけにはいかないと、ビニールシートをひいて対策をうつだけだった。
 そんなさなか、立て続けに襲う台風に危惧を抱いた水島は、思い切って尚人に相談を持ちかける決意をしたのだ。タイミング良く尚人の講義に申し込みをしていた水島は、不躾であることを自覚しながらも、尚人に直接相談を持ちかけた。

 教壇の上では論理性に富むクールな青年講師も、壇上を降りた途端、穏やかで優しい好青年の印象へと変わった。水島は尚人の人柄を一目で気に入り、この人物なら島の問題を解決してくれるのではないかと期待した。
 そして尚人自身、水島の依頼を快く承諾した。実のところ、尚人に持ち込まれる依頼のほとんどが「行政では立ち会ってもらえない程、微妙な問題」が多いのである。中には本当に些細で、行くまでもなく解決してしまうようなことも多々あったが、それでも尚人は嫌な顔ひとつせず、相談者の依頼に応じていた。
 だが、今回はそのような些細な問題では解決しそうになかった。車で向かった工事現場を一目見た瞬間、尚人はその深刻さを理解した。

 リゾート地としてホテルやゴルフ場の建設予定地となっている場所は、酷くぬかるんでいた。ただでさえ柔らかい土に連日の雨が染みこみ、まるで沼地のように泥濘がひどくなっている。降り注ぐ雨の中、シャベルカーが恐竜のミイラのように項垂れて放置されていた。

「――これは酷い……」

 見るなり、尚人はそう呟いた。
 山を切り開いた場所は計画性なく樹が倒れていて、そこから地滑りを起こしても何ら不思議ではなかった。

「ここの工事をしている業者は?」
「表向きは一流企業の建設会社が管理していることになっていますが、実際は中小企業が請け負っています」
「その会社は、この島の――?」
「いえ。ですが社長は今、この近辺のホテルで宿泊しているはずですよ」
「一度、話をしたいのですが」
 尚人の依頼に、水島は「そうですね、そうして頂けると有り難いです」と言うと、すぐに携帯電話を取りだした。何度も社長と掛け合っているのか、手慣れた様子で電話を掛けると、すぐにアポイントを取る。

「あと三十分程なら、市内の事務所にいるそうです。すぐ向かいましょう」
 そう言うと、水島と尚人は踵を返して車へと戻った。

 雨足は次第に強くなり、陸地を吹く風も唸り声を強めていった。
 フロントガラスを叩く雨粒を、ワイパーが必死に両脇へと振り分けている。霞もかかる中、薄ぼんやりと光る信号に気を配りながらも、水島は話を続けた。

「あそこの工事を請け負っているのは『平林建設』というところなのですが、先程も言いましたようにその会社自体は中小企業です。社長の実兄が、管理会社の代表取締役なんですよ。なので、なかば身内で言いようにしているんです」
「しかし、あんなずさんな工事をしていては、工事現場で働く人達も危険ですよ」
「私もそう再三言っているんですが――社長はワンマンな上、頑固でね。資産家の次男坊というだけあって、世の中のことをあまり知らないような気もします」
 どこか批判めいた口調で、水島が言い放った。
「一応、脅しの意味も含めて『今日、東京から偉い先生をお連れする』って言っておきましたから。お願いしますよ、榊野さん」
 そう言って、水島は笑ってみせた。
「――やれやれ。虚仮威しにならなければ、いいのだけど」
 そう言うと、窓枠に肘をついて外に視線を向けた。

 流れる景色は木々の山道を抜け、街中へと入っていった。ビルの建ち並ぶ大通りの脇に車を停めると、水島が告げる。

「そこのビルの三階が、平林建設の支社です」

 無数の水滴が降り注ぐ中、尚人と水島は車から降りると傘をささずにビル内へ飛び込んだ。古いエレベーターで三階まで上ると、目の前に「平林建設」と書かれた看板があった。
 チャイムを鳴らして、しばらく待つこと数分後。扉が開き、中から女性が顔を覗かせた。水島が何をしに来たかわかっているのか、怪訝そうに顔を歪ませた後、尚人の方へと視線を向ける。

「ああ、佐藤さん。こちらの方が、東京からいらしたジャーナリストの先生です」

 紹介された尚人は、「よろしく」と会釈をした。佐藤と呼ばれた女性は上目遣いで小さく頭を下げた後、「社長なら、奥にいらっしゃいます」と一言告げて扉を大きく開いた。
 中に入ると、どこか雑然とした事務所内が目についた。時間が時間のせいか、事務員はここにいる佐藤以外、みな帰ってしまっているようだ。部屋の奥に仕切られた空間があり、どうやらここが社長室のようである。

「社長。水島さんとお連れの方が、いらしてますが――」
 佐藤の声に続いて「入ってもらって」と声がする。中に足を踏み入れると、ソファーにふんぞり返った社長の平林金蔵(ひらばやしきんぞう)が座っていた。
 尚人が平林を見た第一印象は、「まるで時代劇に出てくる悪役だな」というものだった。中年太りした容姿に、薄くなってはいるものの黒々とした髪、そして肌は油がかっているのかどことなくテカテカしている。
 この人物の中に、自然や動物達、花々や虫たちを愛でる「こころ」があるのだろうか──彼らの未来を案じる慈愛があるのだろうかと、尚人はふとそんなふうに思った……が、今はそんな思いに耽っている時間はない。すぐに我に戻った。

「すみません、平林社長。お帰りの前に――」
 水島が慇懃に挨拶をする。しかし、平林は腰をあげようともせず言い放った。
「いいや、今日はたいした用事もないから気にしなくていい。それより、そこにいるのが偉い先生という――」
「環境ジャーナリストの榊野先生です。先生、こちらが社長の平林金蔵氏です」
「どうも、平林です」
 平林はやっとのことで立ち上がり、ポケットから名刺入れを取り出して名刺を差し出した。
 白い紙の中央に、大きく筆字で「平林金蔵」と書かれた文字が印象的だ。

「初めまして、榊野と申します。主に、環境保全に関わる活動をしています」
「で、その大先生が、私ンとこに何の用だね」
 尚人は向かい側に腰をかけると、前屈みになり正面から平林を見据えた。
「率直に申し上げます。先程、工事現場を拝見させて頂きましたが、あまりにずさんな方法で危険極まりない――今回の台風が通過したら即、工事を再開させる前に危険箇所の補強をお願いしたいのです」
「ずさんとは、言いがかりもいいところだ」
 早速、反論をしてきた。
「私ンとこは、今までにも大きなリゾート開発に携わってきたが、いつも同じように工事をしている。だが、問題や事故が起きたことなど一度もない」
「『今までは』ね。ですが、今回は事情が違うんです」
 尚人も負けてはいなかった。
「平林さんは『同じように工事をしている』と言いますが、その時点で問題を含んでいませんか? 現場によっては、土の質などが異なる場合も多々あります。とくに、今工事されているところは長いこと森だった関係で腐葉土が豊富な土地です。ただでさえ柔らかい土壌なのに、計画性なく木々を切り倒してしまっては、地滑りが起きても不思議ではありません。それに加え、この長雨――地滑りの条件が、すべて整ったと言えるでしょう」
 言い切った尚人を前に、平林は目をすがめた。
「……大丈夫だ、そんなことにはならん」
「そのようなこと、誰にも言い切れません。ちなみに、失礼ですが――平林さんは、現場を最近見に行かれましたか?」
「いや」
「でしたら、一度でも足を運ばれることをお薦めします。どのような状況でショベルカーが放置されているか、一度、ご自身の目で確認された方がいいでしょう。明日以降、再び巨大台風が訪れますし、仮に工事現場で何か起きれば、責任問題として回避出来ないでしょうね」

 その一言は、かなり効果があったようだ。
 先程まで偉そうな態度を見せていた平林の顔が、急激に青ざめた。しかし、口から出た言葉は尚人や水島の予想を超えたものだった。

「事故は困る! 私がこの地位に落ち着くまで、どれだけ苦労したと思ってるんだ。事故は何とか避けてくれんか!」

 尚人も水島も、唖然とした。
 平林の口振りは、まるで尚人が事故を起こそうとしているかのようだ。そうではない、今までの積み重ねがそれを起こすか否かだというのに。
「も、もし事故が起こっても――少し、目をつぶってくれんかね。勿論、それなりの謝礼は払うから」
「――言っておきますが」

 尚人が、いつになく厳しい口調で告げた。

「事故が起きたことをどう判断するかは、私が決めるべき問題ではありません。あなたの仕事に携わっている従業員とその家族が判断することであり、この島の住民の方々がどう捉えるかです。顛末を心配するよりも、社長であるあなたがしなくてはならないことは、他にたくさんあるのではないですか? あなたが守るべきは『あなた自身の身の上』ではなく、『プランに関わる大勢の人達』なのです」
 言い切ると、尚人は静かに腰をあげた。
「譲歩出来るところはしたいと思っています。ですが、一番最優先に考えなければならないことが何なのかを、今一度、平林さん自身でお考えください」
 そう言うと、踵を返して社長室を後にした。慌てて水島も後に続く。

 二人が出て行った後、平林は険しい表情でソファーにもたれかかっていた。そこに、秘書の佐藤がお盆を手に現れた。
「あら? お客様はもうお帰りになられたのですか?」
 お盆の上には、湯気の立つ茶碗が三つ並んでいた。給湯室でお茶を準備していた為、尚人達が出て行ったことに気付かなかったようだ。
「――ああ、もう帰った。私も、そろそろ帰るよ」
 そう言う平林は、どこか落ち着かない様子だ。佐藤が怪訝そうに「ハァ」と言うと、平林は立ち上がり様にこう告げる。
「明日、ここに来る前工事現場に寄ってくる。何かあれば、携帯に電話をくれ」
 そう言うと、壁にかけてあった上着をとり平林は部屋を出た。

* * *


 平林建設を出た後、水島は、尚人を行きつけの民宿に案内した。
 海が眼下に広がり、自然豊かな場所に立つ民宿だが、夜の闇と嵐の闇が重なって、景色を楽しむ余裕もなかった。
 降り続く雨の中到着した尚人達を、年老いた女将が歓迎してくれた。「よう来た、よう来た」と心暖まる態度に、尚人の緊張もどこか解れた気がした。
 銭湯でゆっくり体の疲れをとった後、海の幸をたっぷり添えた夕食を摂った。プライベートを共にしているせいか、水島も幾分親近感を感じているようだ。

「俺、この島で育ってこの島の高校を出たんですが、初めて東京に行った時は魚が不味く思えましたよ。それって、偏見ですかね?」

 そう言って、屈託なく笑う。
「榊野さんは、ずっと東京にいるんですか?」
「いえ。僕は、十二歳になるまでオーストラリアにいました」
「オーストラリア! いいなぁ。俺まだ、行ったことさえないですよ。ところで、榊野さんって何歳なんですか?」
「今年で三十六です」
 尚人の返答に、水島は目を丸くした。手にしていたビールをテーブルに置き、素っ頓狂な声をあげる。
「三十六? 俺より六つも先輩なんですか! ――いや、全然そうは見えないですね。俺と同い年か、或いは年下かと思った」
「一応、一児の父親なんだけどね」
 苦笑する尚人を前に、さらに水島は驚きの声をあげた。
「ホントですか!」
「ええ。九歳の娘がいます」
「それは驚きです! 初めて榊野さんに会った時、榊野さんから生活の匂いがまったく感じられなかったから、きっとこの人は変人だから結婚相手がいなかったんだろうって思っていたのに――」
「変人っていうのは酷いなぁ」
 尚人は自嘲するように笑った。
「じゃぁ、こうしてお父さんである榊野さんが留守の時は、奥さんが代わりに家を守ってるわけですね」

 悪気のない質問だったが、尚人の表情は曇ってしまった。何かまずいことを言ってしまったかと、水島も眉間を寄せる。

「子持ちではあるけれど、僕は独り身でね。娘は今、妹夫婦の元に預けられている」
「……そうなんですか。お嬢ちゃん、淋しいでしょうね……」

 何気ない水島の言葉に、尚人の心は深くえぐられるように痛んだ。
 脳裏に、旅立つ前日に見た未来の泣き顔が何度も過ぎる。そのたびに、尚人はまるで罪深いことをしているような錯覚にさえ陥った。

「――すいません。何か俺、まずいこと言っちゃったかな」
「いや、そんなことないよ。たまたま、僕がいろいろと悩み始めていただけで」
「何を、悩んでいるんですか?」
「そうだね。やっぱり『これからのこと』かな。結婚した方がいいのか、とか――」
「再婚なんて、悩む必要ないでしょう? 榊野さんみたいな優しい男、女性が放っておくわけないですから」
「それは滅多に聞かない誉め言葉だなぁ。変人とはよく言われるけど――」
「揚げ足とらないで下さいよう」

 酒の入った水島は、陽気な饒舌家となっていた。
 しかし、尚人の脳裏には未来のことが過ぎって仕方がなかった。
 未来は、淋しくしていないだろうか。
 祖母と、うまくやっているのだろうか。
 電話をして安心させてあげたいが、今はすでに夜の十時を過ぎている。朝の早い祖母達は寝ているだろうし、電話は明日にしよう――尚人はそんなふうに思っていた。

* * *

 
 パパが遠い島へ旅だったその日――未来も、大きな葛藤を抱えていた。
 学校の授業が終わると、未来はその葛藤と対峙しなければならない。学校にいる間は友達との他愛ないお喋りや日常に誤魔化されて、その葛藤も姿を現さないが、帰りの時間が刻一刻と迫るにつれ、途方もない重みでのしかかってくる。

 学校を出ると、台風が近づいてきている影響かひどい雨だった。東京は低気圧から多少外れているせいでそうでもないが、山間部や日本海側などはそれこそ台風並の大雨が降っていると先生が言っていたっけ。でも、そんな天候など気にもならない程、未来の心は鬱々としていた。
 真っ赤な傘を両手で支えながら歩く未来に向かい、友達が背後から声をかける。

「未来ぅ! 今日から、おばあちゃん家でしょ!」
「――うん」

 未来は、出来る限りの作り笑顔を浮かべた。しかし、幼い友人達は未来の裏の心情までは見抜いていない。未来が喜んで実家に行くのだと思っているようだ。
「いいなぁー。あたしも、おばあちゃん家から通いたいなぁ」
「すぅちゃんのおばあちゃん家は北海道だから、通いたくても通えないじゃん」
 そう言って、屈託なく笑う。

 友達の明るい笑顔が、未来にとってはどうにも辛くて仕方なかった。
 罪はないが、憎らしいとさえ思ってしまう。しかし、友達は事情を知らないのだ。憎む筋合いはない。
 そう思うと同時に、未来はおばあちゃんの家がすぅちゃんのように遠くにあればよかったのにと、心底思った。そうすれば、きっとパパだってそうそう未来を預けるなんてことは言わないだろう。今よりも、ずっとパパと一緒にいられる時間は長くなるはずだ。
 しかし、そんな考えを未来は同時に否定した。

 ――パパは、今のお仕事が大好きなんだもの。未来は、足手まといになんかになりたくない……。

 重い心を引きずったまま、駅まで送ってくれた友人と別れた後、未来はぼんやりと電車の中に立っていた。
 窓の外を流れる景色はとても早く、未来をまるで違う世界に連れて行ってしまうかのようだ。学生も多い時間帯の車両さえもが、今の未来にとってはどこか自分から切り離された世界のように感じた。

 最寄り駅に着き、このまま延々電車に乗り続けようかと思いながらも、その勇気もなく未来は電車から降りた。終点の駅名はよく聞くが、それがどこの、どういう街に繋がっているのか未来は知らない。願わくば、終点がパパのいる島だったらいいのにと、叶いもしない空想を膨らませた。
 駅を出ると、雨は小振りになっていた。台風はこれから近づいてくるのだから、おそらく一時的なことだろう。何となく雨に濡れたい気分だった未来は、傘を閉じたまま歩き出した。
 歩いて数分もすると、見覚えのある通りになる。角を曲がった一軒家が、未来が今日から暮らす家だ。ほんの一週間か二週間程度というが、それさえも永遠の時に感じられる程、未来にとっては苦手な空間。未来がパパと住むマンションとは正反対な古風な家造りが、余計に苦手感を助長させるのかもしれない。
 未来が玄関に入ろうとした瞬間、引き戸が開いて祥子が顔を覗かせた。

「あら、未来ちゃん! お帰りなさい。雨、大丈夫だった?」

 祥子の声は澄んだ鈴のようだ。今まで鎧を纏っていた未来の心が、僅かに和んだ。
「う……うん」
 祥子の後ろから、先週二歳になったばかりの大地(だいち)も顔を覗かせた。

「ネェちゃん!」

 大地は満面の笑みを浮かべながら、未来の前までよちよちと歩み寄る。その危なげな歩行に、思わず未来は手を差し伸べた。
 未来は大地が大好きだ。自分の弟のように思っている。
 大地といる時間は、決して苦痛じゃない。それどころか、この家にいるほとんどの人を未来は大好きなことに気がついた。祥子は勿論のこと、祥子の夫、おじいちゃんだって大好きだ。

 ――そう。
 未来のこの憂鬱は、「たった一人の為だけ」に起こっているのである。

 突如大きく扉が開かれ、その存在の声が響いた。
「あらあら、大地ちゃん! ダメでしょ、ネエネに触ったら。ネエネ、まだ『バイ菌』がいっぱいのままなのよ」

 瞬時に、未来の表情が凍り付いた。
 祥子の後ろに、未来がもっとも苦手な「おばあちゃん」――君子(きみこ)が立っている。声色は優しかったが、言っている内容は明らかに棘があった。

 ――私、バイ菌じゃないもん。

 未来はそう言ってやりたかったが、ここでうまくやっていく為には祖母に逆らえない事実をよく知っている。だからこそ、耐えるしかなかった。
「じゃあね、母さん。家のことよろしくね」
 祥子の言葉に、君子は「はいはい、楽しんでらっしゃい」と告げる。その対話に、味方である祥子がどこかに行くことを悟り、未来は慌てた。

「祥子姉ちゃん、どこに行くの!」

 焦り気味な声色に気付いたのか、祥子が申し訳なさそうに告げる。
「……ごめんね、未来ちゃん。今日、十年ぶりの同窓会なの。大地も連れて行くけど――でも、すぐ帰ってくるからね」
 その言葉の裏には「だから、それまでおばあちゃんと仲良くやってね」という祥子の祈りが含まれていた。

 祥子の心情を、未来は子供心にわかっていた。引き留めることも出来ず、「……いってらっしゃい」とだけ告げる。だが、友達に見せた作り笑顔までは、浮かべることが出来なかった……。

 遠ざかる祥子と大地の背中を見送った後、未来は家に入ろうと踵を返した。
 すると、目の前には君子が立っていた。何気なく顔をあげると、視線が合う。

 その時浮かべた君子の表情は、何とも表現がしようのない程「冷徹なもの」だった。
 自分の孫を前にしているとは思えない程、能面のように無表情である。それでいて見下しているかのような目で、未来を睨み据えていた。

 ――お前なぞ、私の家族なんかじゃない。

 未来は、祖母がそんなふうに思っているような気がしてならなかった。
 言葉をかけることなくただ佇んでいると、祖母はプイッ……と未来に背を向け、家の中へと戻ってしまった。

 未来に宛がわれた部屋は、かつて尚人の部屋だった。今は祥子達が使っているが、未来に個室があった方がいいだろうと、わざわざ開けてくれたのだ。
 この家にいる間、この部屋だけが未来にとって唯一の隠れ家だった。未来は、君子との距離を作る為、バリヤーがこの部屋を包んでいるといつも想像した。そのバリヤーに触れられる者は限られている。祥子や大地、叔父である仁や祖父の隆人、「自分を愛してくれる人だけ」が、この部屋に入ることが出来る。 「だから、おばあちゃんは絶対に、この部屋に入って来ることが出来ない。だから大丈夫」──そう自分に言い聞かせ続けていた。

 君子が未来に暴力を振るったことは一度もないが、言葉や態度の暴力が「虐待に入る」のだとしたら、どれほど受けたか数え切れない程だ。
 そのたびに祥子が庇ってくれるものの、そんなフォローさえも立ち消えてしまう程、君子の言葉の暴力は凄まじかった。

 思えば、君子が未来に優しくしてくれたことなど一度もない。
 だから、最初は「そういう性格の人なのだろう」と、そう思っていた。
 しかし、大地が生まれてからというもの大地にまったく違う顔を見せることに気付いて、君子が「未来を特別に嫌っているのだという事実」を目の当たりにさせられたのだ。

 何故、未来だけが君子に嫌われるのか──その理由がよくわからなかった。
 祥子の話だと、パパである尚人は、君子の大のお気に入りだったのだという。むしろ、当時は兄の尚人ばかりひいきして「私なんか、まるで相手にされなかったのよ」と、あの祥子でさえも笑いながら愚痴った程だ。
 だが、尚人が大学を卒業し、自ら歩むべき人生の道を選んだ頃から、母と息子の関係に亀裂が生じた。一流企業の就職を望んでいた君子の期待を、尚人が裏切ったからだ。あくまでも自分の信念を貫こうとする尚人の生き様が、君子は許せなかったようだ。
 だが、それでも君子にとって、尚人は未だに自慢の息子だ。祥子を前にしては、尚人の学生時代や子供の頃の話を延々続けている。だが、そんな母に対し尚人は、まるで避けるようにして実家に近づかないのだった。

 ――でも、パパの気持ち、私にはよくわかる。

 未来は、尚人の写真を見ながら、そう思った。
 今の未来にとっての楽しみは、尚人の古いアルバムを眺めることだった。自分の知らない父親の姿を見ることに、どこか照れくさささえ感じた。自分と同い年ぐらいの頃の写真を見ては、今のクラスにパパのような男の子がいたら、自分はどう思うだろう――好きになったりしちゃうのだろうかと、そんな空想を楽しんだ。
 ふと、その時。

 ポタリと、涙が落ちた。

 写真だけのパパは、どんなに笑顔を見せていても未来の心に喋りかけてはくれない。辛くて毎晩泣いている未来に、「大丈夫だよ」と語りかけてもくれない。その事実が、途方もなく未来を哀しませた。

「パパ……。早く帰ってきて」
 未来はそう呟くと、アルバムに顔を埋めて声を殺しながら泣いた。

神様選挙 - 最初のページに戻る
(C) 2012 Yura Shinozaki All rights reserved.illustration&design by alkasizen