第16章 選択肢
 雨戸に吹き付ける風と雨音で寝付けなかった尚人は、深夜から朝にかけてずっとテレビを見続けていた。襖の向こう側では、水島がぐぅぐぅといびきをかきながら眠っている。こんな嵐のさなかに熟睡出来る水島が、尚人は何となく羨ましかった。気が小さくてすぐにあれこれ悩んでしまう自分とは違い、器が大きい人柄のように思えたからだ。

 テレビ番組は、チャンネルのどこを廻しても帯に「台風情報」が載っていた。台風の規模は、今まで以上に想像を絶する大きさだ。「台風」という言い方さえ相応しくない──「ハリケーン」という方が妥当なような気もする。未来達のいる東京と、この北西の島を一挙にそのまま呑み込んでしまうぐらいの規模である。まだ台風は八丈島沖にいるのにそうとは思えない天候だ。未来達がいる関東の上陸は今日の明け方から朝にかけてと予測されており、この島には午前中から午後にかけて至るのだろう。その際に及ぼす被害はどれほどのものか──想像すら出来ぬ事態を前にして、尚人は自分の無力さを痛感せずにいられなかった。

 それにしても、何故地球は突然このような異常気象を繰り返すようになったのだろう。少なくとも、ここ数年の内の出来事である。北極の氷が溶け始めた為、海流に変化が生じたことが原因とする学者もいる。また、そうしたこととは別に、地球には定期的に生命が絶える危険性の高い気象の変化が繰り返し起こっていた──という説もある。
 大いなる自然を前にして、人間がどれほどちっぽけで無力な者なのか──そんなことは今更言うべきことでもない。しかし、尚人は「これらの異常気象は、今まで人類が行ってきた傲慢な行いや自然への感謝を忘れたことへの警告なのではないだろうか」そんなふうにも感じられるのである。
 そんなことを考えていたら──耳の奥であの「恐ろしい歌」が幻聴のように繰り返された。


 人間滅ぼせ ヘイヘヘイ……
 奴らを蹴散らせ ホウホホウ……



 あの歌声は、何かしら人類に恨みを持つ者達の声なのだろうか。
 だとしたら──この巨大な台風も、昨今続く巨大地震も、すべてはやはり「自然への畏怖を忘れてきた人類への報復」なのだろうか。
 でも……いったい誰が、そんなことを?
 まさか──「神」か?
 神が、恐れを知らぬ人類に「天罰」を下そうとしているのだろうか──?

 そんなふうに考えた尚人だったが、自嘲するように笑いを浮かべた後、かぶりを振った。

 僕としたことが、なんて馬鹿なことを考えたのだろう。
 神は「生命の根源」だ。いわば、「生命そのものでもある」のに。
 生命が、他の生命の滅亡や殺戮を願うわけがない。
 なぜなら、生命は「生きることそのものが目的」なのだから──。

しかし、だとしたら今起きている現象が「何を原因としているのか」、考えても答えは出なかった。
 朝六時を過ぎたあたりに、漸く水島が起きてきた。尚人が一晩中起きていたことを知ると、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すいません……。長旅で疲れている榊野さんひとりおいて、俺だけスーカー寝ちゃって」
「いや。もともと僕は、睡眠時間が短いんだ。だから、気にしないで」
 部屋まで運ばれてきた朝食を前に、尚人は笑顔でそう言った。
「それにしても、本当にすごい嵐ですね。東京の方は大丈夫だったのかな」
「さっきニュースで、東京の中継がされていたよ。スコール並の大雨で交通網は麻痺していたようだが、思った程の被害ではなかったようだ。それよりも、深刻なのは長野や岐阜など山間部の人達だ。立て続けの大型台風で、土砂崩れだの増水だのの被害はそれこそ甚大だ。行方不明者や、亡くなった人も出ているようだし……」
「土砂崩れ、で思い出しましたけど……大丈夫ですかね、平林建設の工事現場」

 不安げに告げられた言葉を聞き、尚人も小さく頷いた。
「僕も、それが気になっていたところなんだ。朝食の後、台風が酷くなる前にちょっとだけ覗いてみよう」
 尚人の同意を受け、水島も頷く。


 朝八時を過ぎた辺りは、さらに風が強まっていた。
 台風がこの島にもっとも接近するのは、十時頃とされている。確認だけをして即引き返すつもりで、尚人達は事務所へと向かった。昨日通った道を行き、三階に到着すると呼び鈴を鳴らす。扉が開き、事務員の佐藤が顔を覗かせた。

「社長、もう来てる?」

 天敵の水島を見ても、どうしたことか佐藤の反応は鈍かった。それどころか、何か気になることでもあるのか、言葉を言い淀んでいるような様子も見受けられた。

「どうしました? 何か、あったのですか」

 尚人の声かけに、佐藤はそれでもしばらく躊躇していた。しかし、しばらくして決心したかのように顔をあげ不安げな表情でこう語った。

「実は……社長から2時間ほど前に電話があって『工事現場に寄ってくる』と言ったまま、連絡がつかなくなっちゃったんです。何度携帯に電話しても、繋がらなくて……嵐はどんどん酷くなるから、心配なんですけど──どうしたらいいか、わからなくて」

 ほぼ同時に、尚人と水島は顔を見合わせた。
「――現場で何かあったのかもしれない。……佐藤さん、もし社長と連絡が取れたら僕の携帯に連絡ください」
 佐藤は慌てて頷いた。その場で踵を返した尚人の後を、水島は慌てて追った。


 平林の行為は、無茶としかいいようがなかった。おそらくは尚人の警告を聞き、改めて危機感を抱いたのだろう。素直な反応ではあったものの、それをするにはたったひとりでするべきではなかった。仲間に声をかけるか、或いはこの忠告をした尚人と共にすべきことだったのだろう。
 尚人は彼の無事を祈ると同時に、心のどこかで自分のことを責めていた。自分の言葉が原因で平林がひとり工事現場に向かうような無茶をしたのではないか、そんなふうに思ったからである。仮に平林の身に何かあったら、尚人は責任を感じずにいられない。無言で眉間を寄せる尚人の思いに気付いたのか、ハンドルを握りながら水島が告げた。

「榊野さんのせいじゃありませんよ。平林が、こんな台風上陸直前に工事現場へ行くなんてことをするからいけないんです」
「――しかし」
「それに、あいつ榊野さんに向かって何て言いました? 寄りにも寄って『事故は困る。私は今の地位を失いたくない』って――あんな言葉、ありますか? あいつは、人命や周囲の環境に対する影響なんかよりも、自分の欲望にしか興味のないような奴なんです! 今回見回りに行ったのだって、自分が地位を失いたくないからに決まってますよ」
 言い切る水島の隣りで、尚人は、それでも平林の身を案じていた。

 工事現場に到着するや否や、尚人達は即、平林の姿を探した。
「平林さん! どこですか、平林さん!」
 呼び声は、風の音に掻き消された。ドウドウと唸る風の声に、弓のようにしなる木々。それらの音が、まるで合唱をしているかのように聞こえた。


 人間滅ぼせ、ヘイヘヘイ
 奴らを蹴散らせ、ホウホホウ……



 不安が爆発しそうになり、尚人は激しく首を横に振った。
 傘をささずにレインコートだけを纏っているが、前髪はびっしょり濡れている。眼鏡には水滴が無数についていた。
「榊野さん、こっち!」
 水島が叫んだ。地面についた窪みを指さし、早口で捲し立てる。

「見てください、これ。きっと社長の足跡ですよ」

 それは、工事現場に設置された詰め所から伸びて、山の奥へと続いている。水島は口をあんぐり開けると、何度もかぶりを振った。
「無茶だ! こんな細い山道、斜面が崩れたらどうする気だよ」
「――行ってみよう」
 迷うより早く、尚人はすでに歩き出していた。
 この山道を抜けると、もうひとつの工事現場がある。おそらく、平林はそこのショベルカーを確認しようと向かったのだろう。

 しかし、そこは斜面が続き、雨水の溜まった土は非常に滑りやすい。それだけでなく下には川が流れていて、水かさを増した分、濁流と化しているのだ。

「平林さん! いたら返事をしてください!」

 水島が叫んだ。
 しかし、返答はない。
「ここから先に行くのはやめましょう。俺達だって危険です。一歩でも滑ったら、川に落ちますよ」
 見ると、地面は酷い泥濘だ。細い山道で足を滑らせようものなら、川に転落するのは間違いない。
 尚人も「そうだな」と言って引き返そうとした――その時だ。

 遠くで声がした。

 尚人も水島も一瞬耳を澄ましたが、やはり何も聞こえない。
「空耳かな」
 そう思って、再度歩き出そうとした二人の耳に、今度ははっきりと声が聞こえた。
 
「た、助けてくれぇ──!」

 瞬時に尚人が反応した。
「平林さん! どこにいるんですか! 場所を教えてください」
「おぉーい。こ、ここだぁ! 崖に引っかかってるんだぁ。助けてくれぇ――」

 弱々しく響いた声は、明らかに平林の声だった。尚人は即座に走り出す。
「いけません! 榊野さん!」
 水島は止めようとして腕を伸ばすが、掴み損ねた。水島もその後を追う。
 山道を僅か進んだところで、崖の下から平林の声が聞こえた。

「おぉーい、おぉーい。ここだぁ――」

 平林は足を滑らせ、崖に転落したようだ。側面に伸びた樹の根を掴み、やっとのことでしがみついている。足下はゴウゴウと音をたてる川が濁流となって流れており、呑み込まれたら命はないだろう。

「助けて。助けてぇ――」

 緩くなった地面から生え出た根を必死に掴んでいるが、平林の体重で徐々に下がりつつある。あとほんの少しで、平林の体が真っ逆さまに落ちていくだろうことは予測出来た。
 尚人は周囲を見回した。即座にロープを樹にくくりつけると、それを握って声をかける。

「今、ロープを投げます! それを掴んで、登って来てください!」

 平林の前に、尚人の投げたロープが垂れ下がった。
 しかし、平林は手を放そうとしない。

「駄目だぁ! 痺れて、手が動かない!」
「いけません! 根っこを離すんです! でないと、重みで落ちてしまう!」
「駄目だ! 助けて、助けてぇ!」

 平林はすっかり錯乱してしまっていた。冷静に判断するだけの余裕は、まるでなさそうである。
 尚人はしばらく迷った末、ロープを掴むと崖の側面に立った。

「僕が今から行きます! それまで、何とか耐えてください!」

 そう言って、崖を降りようとした瞬間。

「いけません!」

 水島が尚人を止めた。
「ここで榊野さんまで行ったら、間違いなくあなたまで巻き込まれます! もしも榊野さんの身に何かあったら、娘さんはどうなるんです。少しは、自分のことも考えて下さい! これ以上、出来ることはありません。救助隊を待ちましょう!」

 未来のことを引き合いに出され、尚人の中で信念が揺らいだ。
 今、尚人の前には、「命に関わる選択肢」が突きつけられているのだ。
 尚人が行っても、平林を助けられるか分からない。最悪の場合、二人とも川に落ちて命をなくす危険もある。
 そして、もうひとつの選択は、救助隊が来るのを「待つこと」だった。だが、平林はだいぶ疲れている。木の根に捕まっている筋力だって、そろそろ限界だろう。救助隊が来るまでに平林が川に落ちることは十分想定出来る。

 二つの選択肢──。
 自分も行って、万にひとつの可能性で平林を助けられる選択肢。しかし、最悪な場合は二人とも命を落とす。
 そして、もうひとつは──自分は確実に助かる選択肢。しかし、救助隊が来るまで平林が耐えられるとは……思えなかった。

   迷う尚人の前で、平林は不安そうな表情を浮かべている。
 それは、六十を前にした男の顔ではなく、無力な子供の表情だった。懇願するように助けを乞う平林を前にして、尚人は自分の気持ちに嘘をつくことは出来なかった。

「――ここで彼を助けられなければ、『僕は一生後悔する!』」

 きっぱり告げると、止める水島を振り切って崖を降り始めた。
「榊野さん!」
「君はそこにいてくれ。僕達に何かあったら、救助隊を呼ぶんだ」
 そう言うと、尚人は慎重に崖を降りていった。
 何とか平林のそばまでたどり着くと、彼の手を握ろうと腕を伸ばす。平林の表情が安堵で緩んだ。

「平林さん。僕の手に捕まって」

 ロープを掴んだ状態で、尚人は手を伸ばした。あと僅かで、平林に届くという――その時。

 助けを急いで求めようとした平林が藻掻いた為に、掴んでいた根はついに切れてしまった。落下しかける平林の体を支えようと、尚人は慌てて腕を伸ばす。しかし、掴んだ平林の肉体はあまりに重すぎて、それを支えきることが出来なかった尚人の手が、つるりと滑ってしまったのだ。

「あっ!」

 二人の体は、真っ逆さまに川へと転落した。
 水に落ちた大きな音と共に、尚人は水島の視界から姿を消した。

「榊野さん! 榊野さぁん!」
 水島の悲痛な叫びは、風と雨の音に掻き消された。

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