第17章 心の繋がり
 未来がいる東京では、早朝をピークにして台風の嵐は治まっていた。通学通勤時間には雨足はだいぶ落ち着き、午後ともなれば、あれほどの風と雨が嘘のように鎮まって雲間から青空が覗いていた。台風で学校がお休みになることを期待した子供達も多かったが、残念なことに平常通り授業は行われた。
 もっとも、未来にとってそれは幸いだった。ほんの数時間であったとしても、実家から離れていたい。祖母の君子が発する差別的な目から、ほんの少しでも逃れていたい──未来にとって実家の空間は、本当に居心地悪いものだった。

 だが――。
 まだこの時点で、未来は知らなかった。
 パパと一緒にいた日常が、「もう二度と、戻ってこないかもしれない可能性」を。
 あの幸福だった日々が、音をたてて崩れ去ってしまうかもしれないことが起きている──ということも。

 そして、そんな残酷な現実が未来につきつけられたのは、給食を食べた後、お昼休みのことだった。

 友人達と遊んでいる最中、突然、教室の扉が開かれた。振り向くとそこには、未来のクラスの担任が立っている。
 その雰囲気は、どことなく緊迫していた。先生は何も語らないが、何か「良からぬこと」があったということが、先生の表情から窺い知れた。子供達が固唾をのんで先生を見ている中で、先生の視線はまっすぐ未来へと向けられた。

「未来ちゃん。ちょっと――」

 只ならぬ雰囲気に、未来は勿論、一緒にいた友達も緊張した。先生と未来を交互に見やる友達の横を通り過ぎ、未来は黙って先生の前に向かった。心の中でざわざわと胸騒ぎがして、口を開けば不安や心配が飛び出して来そうだったから、ぎゅっと口元を引き締めた。
 先生は未来に廊下に出るよう手で合図をした。誘導するよう未来の背に手を置いて壁際まで連れて行くと、先生は腰を落とし、未来と同じ視線に合わせた。

 先生の何気ない仕草、配慮された態度が、未来の中にある不安をますます助長させる。
 先生は一体、何を言おうとしているのだろう──、一体どんな話をするのだろう──未来の心臓は今にも不安ではち切れそうだった。

「――未来ちゃん。さっきね、叔母さんから学校に電話があったの」

 先生の言い方は、決して日常的な普通の言い方ではなかった。緊迫感が、はしばしから感じた。
「祥子姉ちゃんから? 何て……言っていたの?」
 用件を先に聞きたかった未来だったが、先生はそれをはぐらかすようにこう続けた。
「……あのね、未来ちゃんに大事な話があるんだって。だから、急いでお家に帰りなさい」
「――え?」
 未来は、サーッと血の気が引くのを感じた。
 嫌な予感が全身を駆け廻り、心臓が徐々に鼓動を増していく。

「なに、大事な話って……」

 その瞬間。
 先生の目に涙が浮かんだ。先生は気丈にもそれを堪えると、出来る限りの笑顔を浮かべた。
「先生から詳しいお話は出来ないから、お家に帰って、叔母さんから聞いて。――ね?」
 その言葉に、未来の不安は確定的なものとなった。

 ――パパに、何かあったんだ!

 未来は、この場で事情を知りたい衝動に駆られた。でも、もし今ここで聞いてしまったら、実家に行く勇気が持てなくなるかもしれない。パパと暮らした家に戻り、一歩も外に出たくなくなるかもしれない――。
 そう思った未来は、これ以上先生を問い質すのをやめた。黙って頷くと、帰り仕度をする為に教室へと戻っていった。

 家に向かう途中、未来はまるで抜け殻のようだった。
 心にどす黒い影が張り付いてしまったようで、すべてが暗く淀んで見えた。台風一過の鮮やかな晴天も、僅かに色づいた木の葉の色も、未来の心に色彩を取り戻すことは出来なかった。
 重い足取りで家に帰り、玄関の扉を開ける。

「――ただいま」

 誰の反応もなかった。だが、家の奥からヒステリックに叫ぶ声と、すすり泣く声が聞こえてくる。
 未来はすべてを悟った。
 パパの身に何か起きただろうことは、もはや決定的だった。

 もう、何も考えられない。
 何も、思い浮かばない。
 この場から、逃げ出してしまいたい。

 だけど、真実を知る為だけに、未来は靴を脱いで家の中へと入っていった。居間の襖に手を触れようとした時、こんな声が聞こえてきた。

「だから言ったのよ、こんな危険な仕事は辞めなさいって! なのに、尚人が私の言うこと聞かないから、こんなことになったのよ!」

 それは君子の声だった。いつもと同じ甲高いヒステリックな声だが、涙に震えているのがわかる。
 そんな君子を、祖父の隆人が宥めていた。

「――今更、そんなこと言っても仕方ないじゃないか。それよりも、尚人の『無事』を祈ろう」

 その瞬間。
 未来は勢いよく襖を開けた。
 外に未来が立っていると思っていなかった君子達は、驚いた表情で顔をあげる。

「未来ちゃん……」

 祥子が呼びかける。泣いた後なのか、目蓋がひどく腫れていた。

「……パパに、何があったの?」
 静かに問いかける未来に、祥子は何も語れなかった。代わりに、祖父が穏やかに告げた。

「未来ちゃん。――パパはね、台風で濁流となった川に落ちたんだ。今、地元の人や警察、救助隊の人が、必死に捜索してくれている」

 ズシリと、心の中に何かが落ちてきた。頭の中が真っ白になり、みんなの声が遠くに聞こえる。

「……いつ。いつ、落ちたの?」
「朝の八時だ。一緒にいた人が即、救助隊を呼んでくれたのだが、流れが酷すぎて捜索が進まなくてね。お昼を過ぎて嵐も治まって来たから、今はみんなで探してくれている」

 口数少ない祖父が、出来る限りの優しさと、出来る限りの配慮をしながら事実を告げていることが、未来にも伝わってきた。
 あまりの衝撃と哀しみに、未来は呆然としたままだ。
 耳の奥がツーンとする中、遠くで祥子の声がする。祥子はありったけの笑みを浮かべて、こう言っていた。

「だ、大丈夫よ! お兄ちゃんのことだから、きっと無事に決まってるわ。だから未来ちゃん、今日は一日、連絡を待っていて頂戴ね」

 ――大丈夫。
 祥子は、自分を納得させる為にもそう言った。
 だが、心のどこかで「無理かもしれない」という、絶望の気持ちも過ぎっている。少なくとも、尚人が川に落ちてから6時間以上、経過してしまったのだから……。
 未来も、どう返事していいのかわからなかった。
 気がつくと足の向きを変え、呆然としたまま部屋へと戻っていた。ランドセルをドサリと床に置くと、その場で膝を抱えて座り込み、腕の中に顔を埋める。

 ――パパ。
 パパ、死んじゃったの?

 実感が湧かない。
 まるで、今の状況そのものが夢のように漠然としていた。
 ほんの数日前まで、パパは家にいて、未来といろいろなお話をしてくれた。ソラを探す為に、一緒に街を歩いてくれた。
 昨日、遠くの島に旅だったパパ。「この仕事が終わったら、未来が淋しくならないように考える」と、そう約束してくれたのに。その約束だけを信じて、実家での辛い生活も耐えていたというのに。

「……嘘、だよね。パパ、帰ってくるって言ったもんね」

 誰にともなく呼びかける。
 声に出した途端、あり得ないと思っていた状況が重々しい現実となって未来に襲いかかった。
 胸が詰まり、未来は声をあげて泣いた。

*   *   *

 ──どれほど時間が経ったのだろう。
 気がつけば、辺りは暗くなっていた。未来はどうやら、膝を抱えてそのまま寝てしまっていたようだ。

 未来は、台所から聞こえる声で目が覚めた。どうやら、君子と祥子が今後のことを話し合っているようだ。未来に配慮しているのか、声を潜めて喋っているので何を言っているのかまではよくわからない。未来はどうしても気になったので、立ち上がると台所へと向かった。

 台所に近い壁際に立ち、耳をそばだてる。コトコトと煮込む鍋から、かつおだしのいい香りが辺りに充満していた。新聞を捲る音がしていることから、祖父も一緒にいることが分かった。無言の祖父を気にすることなく、君子は早口でこう告げる。

「――だけどね、祥子。あなたの言うこともわかるけど、『あの子』をうちの子にするのは、どうかと思うわよ。それに、あなた二人目の子供が欲しいって言ってたじゃない。教育費や何だでこれからますますお金がかかるっていうのに、『あの子』の面倒まで見られないでしょ?」

 「あの子」というのが未来を指していることに気付くまで、さほど時間はかからなかった。
 君子は、他者と話している時に未来を呼ぶ際、何故か「あの子」と言うのだ。名前で呼んでくれたことなど滅多にない。まるで「どこかよその子」といった扱いである。
 そう呼ばれる理由が、未来にはよくわからなかった。父である尚人のことは気に入っているのに、まるで未来を目の敵にしているかのような態度を見るにつれ、何故こんなにも自分は憎まれてしまったのだろうと、不思議に思っていた程だ。

「だったら、未来ちゃんを施設に入れるとでも言うの? ――そんなの、私は反対だわ。それに、二人目だったら未来ちゃんで充分よ」
「何言ってるの! あの子は、あなたが産んだ子じゃないでしょ? あなたがそこまで、あの子を気に掛ける義理なんてありません!」
 強く言い切られた言葉に、珍しく祥子が憤慨した。
「母さんこそ何言ってるの! 未来ちゃんは、お兄ちゃんにとって大事な娘なのよ!」
「――法律上はね。でも、『血は繋がってない』わ」


 ――え?


 未来の目が見開かれた。
 パパと未来は、「血が繋がっていない」――?
 それがどういう意味を表しているのか、未来は即座に理解出来なかった。

 感情が蠢き、こめかみの辺りがビクビクしている。心臓が高鳴って、目の前が真っ暗になった。
 愕然としたまま立ち尽くす未来の耳に、祥子の声が響く。

「まだそんなことを言ってるの? 血の繋がりだの何だの、そんなの関係ないわよ! 未来ちゃんは、お兄ちゃんにとって立派な子どもだわ! 9年間も育ててきた証のある、愛する娘よ!」
「あくまで『養子』としてのね。実際の子供だなんて――そんなの、私は認めませんよ!」
 君子は口調荒く反論した。興奮しているのか僅かに呼吸を乱した後、こう続けた。

「──大体ね、どこの馬の骨ともしれない女が、尚人を騙して、自分の連れ子であるあの子を『押し付けただけ』じゃない。つきあってもいない女が置き去りにした子供を育てるなんて──ほんと、尚人のお人好しには、呆れてものも言えませんよ!」

 その時。
 ガタン、と音がした。
 瞬時に、祥子と君子が振り返る。
 見ると、自分の体重を支えきれなくなって壁に手をついたまま通路に立ちすくむ未来がいた。

 祥子の顔から血の気が引いた。
「み……未来ちゃん! 今の話、聞いて――」
「おばあちゃん、本当なの?」
 未来は祥子の言葉を遮った。
 目は、真っ直ぐ祖母である君子に向けられている。
 君子も、さすがにバツの悪そうな表情を浮かべていた。頑なな姿勢で腕を組み未来を睨み据えているが、どこか迷いも感じさせた。
「私、パパの子供じゃないの? ママは、私のことをパパに押し付けて、出て行ってしまったの?」
「――ええ、そうよ」
 君子は低く告げた。
「あんたのお母さんはね、まだ一歳にもなってないあんたを連れて、尚人の元に転がり込んだのよ。さんざん世話をやかせた挙げ句、他に恋人が出来た途端、あんたを尚人に押し付けてどこかへ逃げてしまった――」
「君子! それ以上のことを言うな!」
 普段は穏やかな隆人が、君子の言葉を遮って止めさせた。
「母親がどうであれ、この子には何の関係もないだろう! 大人の勝手な憶測を、子供に押しつけるな!」

 祖父の助け船さえも、今の未来には届かなかった。
 だが不思議と、君子やママへの怒りなど、未来の中には湧き起こらなかった。
 それよりも深く深く残ったのは――何よりも「パパへの感謝の気持ち」だった。

 ――パパは、最初からすべてを知っていながら、私を育ててくれたんだ。

 そう思った瞬間。
 涙が溢れた。

 未来の心を占めているのは、怒りなどというものではない。
 憎悪というものでもない。
 ただひたすらに、パパに「ありがとう」と言いたい気持ち――それだけだった。

 しかし、パパは今、行方不明なのだ。
 濁流に呑み込まれ、もうこの世にいないかもしれないのだ。
 そう思った途端、未来の心は爆発した。踵を返すと、バタバタと廊下を走り出す。

「未来ちゃん!」

 祥子が慌てて後を追う。しかし未来の足は速く、玄関先で靴を履くと、そのままの勢いで家を飛び出してしまった。

「未来ちゃん、待って!」

 祥子もサンダルを履き、外に出ようとしたが――。
「あっ!」
 サンダルの紐が切れてしまった。
 走り続けることが出来ず、片足だけ履いた状態で門の外に出る。街灯が薄ぼんやりと道を照らす中、遠ざかっていく未来の背中だけが見えた。

「お願い! 未来ちゃん、戻ってきて!」

 祥子は張り裂けそうな気持ちを堪えながら、必死に叫んだ。
 未来も、背中越しに祥子の叫びを聞く。
 祥子には、申し訳ないと思っている。
 いや、君子だって、何か悪いことをしたわけではないのだ。ただ、君子の価値観の中で、未来のママがした行為を受け入れられなかったというだけの話で。
 未来はどこともなく走りながら、必死にパパを求め続けた。

 ――パパ! パパ!

 どんなに心が叫んでも、パパの元に行けるわけではない。
 パパが、すぐに帰って来てくれるわけではない。
 どんなに時間がかかってもいい。
 どんなに遅くなってもいいから、必ず帰ってきて欲しい。
 未来は、心の底から祈り続けた。

 無我夢中で走り続け、未来は、見たことのない公園にたどり着いた。
 溢れる涙を袖で拭い、肩で呼吸をしながら、公園の中へと入っていく。

 公園の周りには雑木林があり、中央には小さな池があった。ベンチ脇に街灯があるだけで、後は灯りすらない薄暗い公園を歩きながら、未来の足は池へと向かっていた。

 池の畔に腰を落とすと、黒い塊となった水面を見下ろす。
 未来の心に、様々な思いが駆けめぐっていた。
 脳裏に過ぎるのは、旅立ちの前日、パパが告げた言葉だった。未来が「血の繋がった親子」についての話をしている最中、パパはこう言っていた。

 ――僕は、血の繋がりは重要だと思っていない。大切なのは「心の繋がり」だよ。

 それはまさしく、パパと未来の関係のことだったのだ。
 いつも、愛情深く見守ってくれていたパパ。誰よりも、未来を愛してくれたパパ。

「……パパ」

 未来は、小さく呼びかけた。
「パパに会いたい……。会いたいよう……」
 池の縁にしゃがみ込み、ポタポタと涙を零す。
 もしもパパが死んでしまっていたら――自分はひとりで生きていけない。そう思った。
 祥子には申し訳ないと思いつつも、それが、未来の本音だった。

 ――もう、死んじゃいたい。

 今の状況下で「死」という言葉は、途方もない安らぎに思えてしまった。
 このままパパが帰って来なければ、未来は実家で一生暮らさなければならないのだ。それだけは、どうしても耐えられなかった。

 ――パパ。あたしも、パパのところに行きたい。パパに会いたい。

 再び涙が溢れた。
 未来は膝を抱えたまま涙を拭うことなく、じっと座り込んだ。
 大粒の涙は未来の頬を伝い、池の水面へと落ちていった。ひとしずく、またひとしずくと、池の中に未来の心が落ちていく。

 ふと、その時だ。
 未来の前で、水面の一部がボーッと明るく光った。
 黄金色の光が、優しく周囲を照らしだす。

 未来は驚いて身を乗りだした。すると、光はゆらゆらと揺らめきながら、何かを映しだしたではないか。

「何、これ……?」

 思わず呟いた。
 信じられない出来事に呆然としている未来の前で、ある光景が浮かび上がったのだ。
 そこは、天国と思えるぐらいに美しい風景だった。
 大きな樹が一本そびえ立ち、空は七色に輝いて、辺りは色とりどりの花に囲まれている。

「きれい……」

 未来は、そこに行ってみたいと、真剣に思った。
 ここに行って、この大きな樹に触れたいと――そうすれば、今ある哀しみもすべて吹き飛んでしまうのではないかと、そう思った。
 未来は、手を伸ばしてみた。
 樹に向かって、ひたすら伸ばし続ける。そして、指先が水面についた瞬間。

 ――まるで電撃のように、様々な思いが未来の心に飛び込んできた。

 それは、途方もない程大きくて深い愛だった。
 何もかもを赦す、慈しみの心。
 何て言葉に言い表せばいいのかさえ、わからない。
 未来は、水面に触れた瞬間、全身で愛を受け取ったのだ。
 未来に注がれた愛が、氷のように固まってしまった心を、じわりじわりと解していく。

 ――心配しないで。

 どこかで声がした。

 ――心配しないで。必ず会えるから。だから、心配しないで。

 声は、何度も何度も繰り返した。
 未来の心から不安が完全になくなるまで、ずっと語り続けてくれる。まるで、すぐそばに立って、泣きやむまで慰めてくれたパパのように。
 池の光が弱くなってきたあたりには、未来の涙も完全に止まっていた。
 それどころか、胸のあたりが温かくなって、じわりと全身を包みこんでいる。
「……パパだ。パパが、私に呼びかけてくれたんだ」
 そう実感した。
 未来は、それこそが心の繋がりだとそう思った。

 未来の中から恐れが消えた。
 どんな現実が訪れようとも、パパとの絆が切れることはないということを、深く実感したからだ。
「ありがとう、パパ……。私、信じて待ってるからね」
 未来は、何も映し出さなくなった池に向かい、笑顔でそう語りかけた。


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