第19章 失われた「自分」
 ──遠くから、小鳥のさえずりが聞こえる。
 意識が少しずつ芽生えてきたものの、妙に体が重い。まぶたがまるで鉛のように固くなってしまったようで、開かないのだ。朝の日差しが優しく頬を照らしていて、氷のように固くなってしまった表情を少しずつ溶かしていく。それに伴って、少しずつまぶたを開けることが出来た。
 すぐ目に入ったのは、白い天井だった。しかし、見覚えがない。こんな天井、一体どこにあったっけ?

 何だか、様々なことに違和感を感じた。
 まるで、自分一人が「夢の中から飛び出してきてしまった」かのように。夢の中に生きていたはずの自分が、突如、リアルな現実世界に呼び起こされてしまったかのような、そんな異質感がある。
 ふと、階下から明るい声が聞こえてきた。子供達のはしゃぎあう声を遮るようにして、誰かがこう呼びかけた。

「空! 空、早く起きなさい。もう学校に行く時間だよ」


 ――ソラ? 


 そう。
 そういえば……確か、僕はそんな名前だった。
 だけど、何かが違う。何かがおかしい――。
 何だか、「僕が僕じゃないみたい」なんだ。
 今の僕は……「本当の僕」なのだろうか──?

 そんな思いに駆られながらも上半身を起こし、布団を横によけた。両脚を揃えて床に降り立ち、スリッパを履く。
 しかし、どうしたことだろう。
 歩き方を忘れてしまったかの如く、足がうまく動かない。何度かつまずきながらも、漸くタンスの前に立つことが出来た。

 いつもしている行為、いつもと同じ日常。
 それにも関わらず、何故か自分が自分でないような、そんな気がする。いつから、自分はここにいたのだろうか。前から、自分はこうなのだろうか。

 そんな疑問を抱きながら、空は鏡の中を覗いた。
 すると、どうしたことか。そこにいたのは、八歳ぐらいの「人間の少年」ではないか。
 茶色の柔らかい髪は僅かに寝癖がつき、大きな目で見つめ返している。

「これ……、僕?」

 実感のわかない思いを抱えながらも、鏡を覗き込んでいた、その時。

「空! いつまで寝てるんだい、早く仕度をおし! お姉ちゃん達はとっくに朝御飯を食べてるよ」

 扉が開き、母親が顔を覗かせた。小太りの母は口調は荒いものの、愛情の籠もった表情でそう告げる。
「――お母さん?」
「何、ポカンとしてんだい。具合でも悪いの?」
「ううん、そうじゃないけど――僕……」
「なら、早く仕度なさい。お姉ちゃん達においてかれちゃうよ」
 母はそう言って、扉をバタンと閉めた。


 階下に降りると、玄関先にランドセルが並んでいた。
 黒いランドセルが二つに、赤いランドセルが一つ。ひとつは自分のもので、後の二つは姉と兄のものなのだと、空は気がついた。
 しかし、未だにはっきりしない。
 自分は、本当に「今までどおりの自分」なのだろうか。
 何だか、変な感じである。自分が自分でない――まるで、見ず知らずの他人のように思えるなんて。

 呆然と佇む空の耳に、再び母の小言が届いた。
「空っ! あんた、学校行く気あんのかい!」
 我に返った空は、慌てて台所へと向かった。

 小さな食卓を前にして、姉と兄は騒ぎながら朝食を食べていた。姉は空に気がつくと、目を瞬きさせて言う。
「あんた、相変わらずのろまよねぇ――。あたい達、もうご飯食べちゃったわさ」
「これ、陽菜子(ひなこ)! 『あたい』じゃなく『私』って言いなさいって、何度言ったらわかるんだい!」
 母の苦言に、陽菜子は「はぁい」と不満そうに唇を尖らせる。
「空、あんたもご飯食べちゃいなさい。あんた、ただでさえ痩せっぽちな上チビ助なんだから、ちゃんと朝御飯食べなくちゃ駄目だよ」
「――うん」
 口ごもるように返事をしながら、先に食事をしている姉と兄に目を向ける。
「……お姉ちゃん?」
「あによ」

 空は、陽菜子の顔を見つめたまま呆然とした。
 そう――陽菜子のことは、よく知っている気がする。だけど、それは果たして今いる陽菜子だったかどうか、空にはよくわからなかった。何も言えないまま立ち尽くしている空の前で、兄が声をあげる。

「ねぇねぇ、陽菜ぁ。僕さぁ、今日すっごく変な夢見たんだ!」
「あによ、あーくん。どんな夢よ」
「それがさぁ――僕や、陽菜や空、お母さんまでが動物になる夢なんだ。みんなで、砂漠を旅してるの」

 その話を聞いた途端、空の目が見開かれた。
 不思議な感覚が全身に廻る。
 一方、陽菜子は弟の言動をバカにしたようにカラカラと笑った。
「なぁにそれ――、バッカみたい! いい年して、そんな夢見てンじゃないわさ」
「でも、すっごく面白い夢だったんだよ!」
「動物になるなんて、面白くも何ともないわさ。もっとプリティでハッピーな夢見なさいよね」

「ねぇ、ちょっと!」

 突如叫んだ空に、みんなの視線が集中した。
「僕も、その夢を見た気がする。――ううん、夢じゃない。僕、本当は『そっちが現実』のような気がするんだ!」
 空は真剣に叫んだ。
 しかし、陽菜子もあーくんも、そして母までもが「ハァ?」と首を傾げた。互いに顔を見合わせた後、陽菜子が大きな目をパチクリさせて問うた。

「……あんた、本気でどうしちゃったわけ?」
 母は赤いチェック柄のエプロンで手を拭いた後、空の額に掌をあてる。
「熱はない、みたいだね。……まったく、心配だねぇこの子。心の病にかかってなきゃいいけど。この子には、お姉ちゃん達みたいな図太さがないからねぇ」
「みんな、覚えてないの? 動物だった頃の記憶、持ってないの?」
「――僕達人間なんだから、そんな記憶あるわけないじゃん」
 あーくんが呆れたように言う。
 哀しそうに顔を歪ませる空の前で、陽菜子の甲高い声が響いた。
「いっけない! もうこんな時間、遅刻しちゃうわさぁ!」
 そう言うと、慌ただしく駆け出す。
「ほら、空。あんたも行きなさい」
 母が空の肩を叩く。
 空は事情が呑み込めない様子で、小さく頷いた。
「気をつけて行くんだよ。具合が悪かったら、いつでも帰っておいで」
 母は心配そうに手を振り続ける。
 態度と口調は少々乱暴だが、母がどれほど愛情深い性格なのかを、空はよくわかっている。――もっとも、今の母としてではなく、違う存在としてそれを知っていたような気もするが。
 漠然とした不安を抱えたまま、空は姉と兄の後について家を後にした。

 学校に向かう道のりが、空にはとても苦痛だった。
 歩道のない道路でさえも、車は容赦なく走り抜けていく。ぼんやりしていようものなら、轢かれてしまいそうだ。自転車も空を擦り抜けるように走っていくが、あのスピードでぶつかろうものなら、小さな空など簡単に吹き飛んでしまうだろう。
 外の社会って、すごく怖いところだ――空は思った。
 陽菜子もあーくんも、空のような不安をまるで抱えていないようだ。元気にはしゃぎながら、車の通る道でさえ我が物顔で歩いている。

 ――僕は何故、二人のようになれないんだろう。

 空は、だんだん哀しくなってきた。
 空の中には、「こんなところにいる時間はない」という焦りがあった。自分には、何かしなくてはならないことがあったはずだ――何かをしなくちゃいけなかったはずだと、そんな衝動だけが蠢いて、今にも爆発しそうだった。
 だが、その「何か」が、空にはまるでわからない。「何かわからないけど、しなくちゃならないことがある。それがわからないまま、ここにいなければならない」という不透明な苦痛だけが、空の中で繰り返し誇張された。とてつもない哀しみと、深い絶望感が空を襲い続けた。

 ――何故だろう。僕は何故、こんなに哀しいんだろう。
 空の瞳に涙が溢れた、その時だ。

 前方を、影が遮った。突如視界を遮られ、空は徐に顔をあげた。
 そこには、一人の青年が佇んでいた。

 ――誰だろう……。

 見覚えがあるような気もする。
 それにしても、不思議な青年だった。長身でスラッとした、整った顔つきの青年。彼が纏う雰囲気はどことなく影があり、どことなく神秘的だ。
 黒いコート姿の青年は、静かな瞳で空を見つめている。肩まである黒髪は朝の風に靡き、優美な印象とはそぐわない大きな傷が、青年の左目を塞いでいた。
 空は、呆然と青年を見つめ返した。
 この青年と、どこかで会った気がする。でも、どこで会ったというのだろう――。
 ポカンと口を開けたまま青年を見上げる空を前にしても、青年は何も言わない。ただじっと、ソラを見つめ返すだけだ。
 ふと、その時。

「――ちょっとちょっと、空ぁ!」

陽菜の金切り声が響いた。
「あにしてンのよぅ! もたもたしてないで、さっさと来なさいよぅ!」
「は――い」
 ソラが青年から僅かに目を離した隙に。
 青年は、ソラの横をスッ……と通り過ぎた。
「あ……!」
 慌てて振り返る。
 しかし、青年は何も語らず、ソラに背を向けたまま遠ざかって行った。

 学校に着いてからも、空の憂鬱は消えることがなかった。
 それどころか、ますます酷くなっていく気がする。
 自分の周りにいる同級生達は無邪気な笑い声をあげて走り回り、自分の感情を自由に表現している。
 それなのに何故か、空は気持ちが晴れなかった。元気な友達を見るにつれ、ますます「自分は何者なのだろう」という疑問が膨らむばかりだ。先生の授業を受けていても、図画工作で絵を描いている最中でも、常に頭の片隅で「自分は一体、何者なのだろう。何故、ここにいるのだろう」という疑問がべったり貼り付いたまま、消えることはなかった。
 そんな気持ちを抱えたまま、社会の授業を受けていた時のことだ。

 黒板の前に垂らされた地図を見上げ、ひとりの生徒が質問をした。
「先生! その、灰色に塗られた部分は何ですか?」
 空も顔を見上げて地図を見た。
 地図には、この国の産業の特色などが記されていた。しかし、ある一部分だけが不自然なまでに塗りつぶされているのだ。
 生徒の疑問に、先生は大きく頷いてから説明をした。

「ここは、この国でもっとも大きな『更正施設』です」
「こーせーしせつ?」
「そうです。犯罪を犯してしまった人達や、精神的病に陥った人達、もしくは社会不適合に悩む人達などが共に暮らしながら、社会人としての生活を送れるよう、再教育される施設です」

 更正施設。
 地図上のそれは、まるで「個性を塗りつぶす」かのように灰色で塗られていた。他の地域はピンクだったり黄緑だったりと、色彩豊かに表現されているというのに、その施設だけは全面「灰色一色」なのだ。それはあたかも、「『自分』という個性を失い、周囲に迎合することを強制している」かのように。
 ――と、その時。

「空くん」

 名前を呼ばれ、ハッと顔をあげる。
 目の前には、訝しそうな表情の先生が立っていた。
「今日は一体、どうしたのですか? いつになくぼんやりしていることが多いですよ」
「あ、はい――すみません」
 空はそれ以上答えることが出来ず、もじもじするばかりだ。
 先生はしばらく空を見つめていたが、「まぁ、いいでしょう」と吐き捨てるように言ったあと、再度声をあげる。

「では皆さん。今日の授業はここまでです。次は給食の時間ですので、準備に入ってください」

 その合図と同時に、子供達は一斉に声をあげて動き出した。ガタガタと揺らす椅子の音が聞こえる中、それでも空は机を前に座ったまま顔を伏せている。
 ふと、空の前に影が出来た。
 顔をあげると、そこには先生が立っている。険しい表情を浮かべたまま、先生はこう言った。

「空くん。先生と、少しお話をしましょう。カウンセリングルームまで来てください」

 先生に連れられ、空はカウンセリングルームと称される小さな部屋へと向かった。
 廊下を歩いている最中、先生はひとことも空に話しかけることはなかった。また、空自身、質問するような気になれなかった。無言のまま歩く姿は、どことなく連行されているようなイメージを伴った。
 部屋に入ると、先生は冷淡な声で「そこに座って」と告げた。先生が勧めた椅子に、空は無言で腰掛ける。先生も向かい側に腰をおろすと、肘から先の腕を机につき、前屈みになって空を覗き込んだ。
 空は先生の顔をじっと見つめ返した。まだ年若い女性教諭は、母性を感じさせない程きっちり身なりを整えていた。スーツを着込み、髪の毛は一本の乱れなくきちんと結わいている。銀縁の眼鏡は、女性教諭をさらに冷淡なものへと演出した。

「何で自分が呼ばれたか、わかっていますか?」
 穏やかな切り出しだが、それはまるで空が悪いことをしたかのような口振りだった。
「あ、はい……。僕が、ぼんやりしていたから――」
「そうです。その理由を、詳しく話してもらえますか?」
 どことなく事務的な態度だった。空はしばらく躊躇った後、徐に語る。
「今朝起きた時から、僕、自分のことがよくわからなくなっちゃって……」
「それは、どういう意味ですか」
「僕もうまく説明出来ないんだけど――何だか、今の自分が『本当の自分じゃない』ような気がするんです」
「――本当の自分ではない?」
「はい。何て言うのか……僕の本体はどこか別にあって、今の僕は仮の姿なんじゃないかって」
 その答えに、先生は失笑するような笑みを浮かべた。

「もし今のあなたが『仮』なのだとしたら――この世界も『仮』ということですか?」

 その質問には、空も何て答えていいのかわからなかった。
「よくわからないけど――もしかしたら、そうなのかもしれない」
「それは、この世界が『幻想の世界』とでも言いたいのですか?」
「そ、そこまではわからないけど……でも、そんな気がするんです……」
 空がそう言い切ると、先生は可笑しくて仕方がないと言った様子で吹き出した。笑いを呑み込むと、姿勢を横に向けて左肘だけを机についた。
「空くん。あなた、想像力は豊かなようですけど――あまり、そういうことは他人に言わない方がいいですよ」
「どうして?」
「あなたがおかしくなったのだと、みんなが思うからです」
「『本当の自分を探すこと』って、おかしなことなの?」
「当然です。私達人間に、個性や自我などあってはならないのです。私達はあくまでも、社会に組み込まれた歯車でなければなりません」
「そんなのおかしいよ! だって、クラスのみんなは思う存分、自分を表現していたじゃない。図画の時間の時だって、みんな伸び伸び自分の心を表現していたじゃない」
「それは、まだ彼らが『個性を認めてもいい時期』にいるからです。しかし、それも小学四年生までの話。五年生になったら、私達は『社会に組み込まれる為、いかに自我を抑えるか』『いかに個性をなくし、社会の枠組みに従うか』を教えられていくのです。あなたも、あなたのお姉さんもお兄さんも、五年生になれば『社会の規律』を教えられるようになります。遊び呆けていられるのは、今のうちです」
「それでもし、その『きりつ』に従えなかったらどうなるの?」
「――『更正施設行き』です」
 先生は、こともなげに言い放った。
「だけど安心なさい。更正施設で半年も暮らせば、自我や個性を持つことがいけないことなのだと自然に自覚出来ます。そうすれば、また元の暮らしに戻って、普通に生活出来るようになるのです」
「もし半年で戻れなかったら――ううん、ずっとそうなれなかったら、どうなるの?」
「――そんなこと、今答える必要はありません!」
 きつく言い放した。
 冷たい輝きを放つ先生の瞳を見ながら、空はぽつりと呟く。

「……僕、先生の言っていること、間違ってる気がする」

 先生のこめかみが、ぴくりと反応した。
「個性的であることって、何も奇抜だったり抜き出ている必要はなくて、ありのままの自分でいるってことだよね? それを抑えたり、なくすことなんて、絶対に無理だと思う。それに、どんなに社会に組み込まれたとしたって、僕の中にある『何かをしなければならない』という思いは消えたりしないよ。生きていく中でずっと、僕が僕自身に嘘をつき続けなければならないなんて――そんなの、絶対に無理だよ」
「――そうですか。なら、勝手にしなさい!」
 先生は勢いよく腰をあげた。それに続いて立ち上がろうとする空を睨み付ける。
「あなたは、ここにいて結構です」
「ど……どうして?」
「あなたには、少し『教育』が必要だからです。そこでしばらくお待ちなさい」
 そう言い切られてしまっては、空も反論することが出来ない。しばらく戸惑っていたが、再び腰を落とした。

 先生が席を立ってから、かなりの時間が経過した。
 その間三回程チャイムがなり、給食の時間などとうに終わってしまった。今頃教室では、午後の授業が始まっているだろう。
 何の指示もないまま、空はカウンセリングルームの椅子にひとり腰掛けていた。昼前に来た為に、昼食を食べ損なってしまった。空腹で情けない音をたてる鳩尾をさすりながら、空は深く溜息を吐いた。
 ――お姉ちゃんやお兄ちゃんは、一体どうしているだろう。
 あの二人のことだ。他の子供達同様楽しくやっているに違いない。空は、自分だけがどうしてこのような迷いや不安を抱えているのかを、必死に考えた。
 ――僕、どうしても自分が不自然に思えて仕方ないんだ。今の僕が、本当の僕とは思えない。でも、その理由は何なんだろう……。
 ふと、その時。
 突如、扉が開いた。顔をあげると、そこには見慣れない男が二人立っていた。先程の女性教諭に負けじと劣らない冷淡さで、じっと空を見つめている。
「君が、空くんだね」
 低く問われ、空は慌てて頷いた。
「話は聞いている。我々と一緒に来なさい」
「ど、どこへ行くの?」
 怯える空に歩み寄りながら、男は告げた。
「君は、『本当の自分』を思い出したいのだろう?」
「……うん」
「それを思い出させてあげよう」
「本当に?」
 不安げに尋ねるソラに向かい、男達は頷いた。
「本当の本当に――僕は、自分のことを思い出せるの」
「勿論だとも。……だから、一緒に来るんだ」
 そう言うと、男はソラの手首を掴み、強引に連れ出した。

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